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福生の酒蔵は酒呑みの楽園だった
東京都福生市、多摩川の近くで幕末の1863年(文久3年)に創業し、154年前から日本酒を造る酒蔵、石川酒造を訪ねました。風格ある土蔵をめぐったあと季節ごとの日本酒や造りたてビールを堪能。酒好呑みには最高のテーマパークでした。
<目次>
妻がすすめる酒蔵
幸せなことに50歳を過ぎて和食に合う日本酒がしみじみ旨いと実感するようになった私。東京の酒蔵取材を思案していたとき、日本酒好きの妻がすすめてくれたのが石川酒造です。妻はこの酒蔵の最寄り駅がある拝島で働いていたことがあり、町でよく呑んでいた石川酒造の清酒『多満自慢』への想い入れが強いようでした。調べると、清酒と地ビールを造り、呑めて、買える土蔵を見学できるとのこと。予約して通常の案内コースを体験しました。
はじめて福生市熊川の地域に足を運んだとき、石川酒造の長い外壁と敷地の広さに驚きました
入口には多摩の自慢となり、多くの人の心を満たせるようにと名付けた清酒『多満自慢』の看板が掲げられています
寒仕込みの酒蔵
石川酒造の橋本恭男さんが最初に案内してくれたのは清酒を仕込み、醸造する本蔵でした。3階建てでこれだけ大きな土蔵造りの建物は珍しく、国の有形文化財に登録されています。中に入るとひんやりとした空気と清酒の芳香に包まれます。空調設備がないため、お酒の仕込みを行うのは寒い時季のみ(寒仕込み)。この点が一年中、お酒を仕込んでいる大手酒造会社との違いだとか。訪問日は仕込みが始まったばかりで、夕方からしぼりたての新酒を販売開始するタイミング。取材を半日ずらせばよかったと後悔しました(笑)。
酒造りの場所、本蔵。1880年(明治13年)の建築で高さ13m、横幅25m、奥行き31m
本蔵から案内を始めた橋本さん。約40本あるグリーンのタンクに清酒を貯蔵していきます
憧れの杉玉
酒蔵の軒先に吊るされる杉玉(酒林)は「新酒ができました」というサイン。訪問時、本蔵の杉玉は茶色く変色した1年前のものでしたが、夕方からは瑞々しい緑色の杉玉に交換。新しい杉玉が出番を待っていました。この杉玉はなんと社員が毎年作っているのだとか。
「インターネットにも作り方が紹介されています。どうですか、杉玉を一家に一つ、作られてみてはいかがでしょう?」と橋本さん。石川酒造のものは特大で特注の鉄フレームに杉の葉を挿しこみますが、小さなものは針金のフレームでできるそう。杉玉のかたちと存在感に魅せられ、家の玄関に飾りたいとひそかな願望を抱いていた私は、橋本さんの助言に背中を押されて心躍りました。近々に杉玉作りに挑戦してみたいと思います。
橋本さんたちが作った杉玉。あと少しかたちを整えて完成だそう
神聖な敷地
見学の日が快晴だったのも幸運だったのでしょう。石川酒造の入口をくぐると、木々の緑や深い陰影の木洩れ日、流れる水の音に心の安らぎを覚え、清らかな空気と光に包まれました。そうして結界をまたいで聖域に入るような神妙な心地になったのです。
敷地内には玉川上水から取り込む「熊川分水」が流れていますが、その水ではなく地下水をお酒の仕込みに用いているそうです。上総層群・東久留米層下部層の天然水で、昔は杜氏に選ばれた人が井戸に入り清めてから手作業で汲んでいたとか。この地に酒蔵があるのは良質の水があるから。水は清酒の品質を左右するたいせつなものですと、橋本さんは説明します。
敷地に入って目に飛び込むのが樹齢400年の「夫婦ケヤキ」の威容。
地下150mより汲み上げる中硬水の天然水。汲んで持ち帰ることもできますが、早く飲むか、沸騰させて利用しましょう
「夫婦ケヤキ」の根本には水の神様「弁財天」様とお米の神様「大黒天」様が祀られています。
軽妙な解説
石川酒造には本蔵をはじめ国の有形文化財である土蔵が6棟も立っています。それらの建物や立派なケヤキの木々、清らかな水、酒造りの歴史を物語る道具など、橋本さんは簡潔にわかりやすく解説してくれます。たとえば「夫婦ケヤキ」は「400年仲睦まじく寄り添っているので、夫婦仲が良い方は拝んでいただくと、より仲良くなるパワースポット。仲の悪い方は手遅れ」といった軽妙さ。笑いながら愉快に耳を傾けられます。
<滑らかなテンポで、ときに笑いを誘いながら見どころを解説>
約2トンの米を蒸した道具「甑(こしき)」。蒸すのに4時間要しましたが、今は1時間ほど。昔の重労働をしのぶ展示。
見学中も休憩できるベンチが所々に設けられています。日なたでは猫のトメちゃんがなごんでいました。
石川家の先見
酒蔵を営む石川家は今も町名に名前が残るこの地、熊川村に400年ほど前から代々名主を務めながら暮らしてきたそうです。地域のまとめ役を担い、多摩川の氾濫対策や治水工事の責任者になり、多摩川で獲った鮎を将軍へ献上する御用も賜っていたのだとか。13代目当主・石川彌八郎は幕末の不安定な時代を生き抜くため、先行きが見えない農業の兼業で酒造に着手。現在の多摩川の基礎が出来上がり、農作物の生産性が向上して清酒の材料となる余剰米ができる背景があったとはいえ、多摩川の恵みを活かす発想、決断は優れた先見性からくるものだったのでしょう。その時代の流れを読む力は17代、さらには18代当主に継承され、古い蔵を活かす英断をおこない、見学できる体制を整えました。見学後はお酒と料理を味わえるレストランを設け、地ビールの事業もブームに先駆けて復活。いちはやく時代の機運をつかむセンスを見学中、観て取っては感服していました。
18代石川彌八郎を襲名した社長が住む家の「長屋門」も見学可。江戸時代の建築で、これも国登録有形文化財。
社長の嗜好を伺える車「スバル360」を展示。1958年製造の名車をレストアしながら維持している。
地ビールも魅力
石川酒造は明治20年(1887年)から1年間、ビール醸造にも取り組んでいたそうです。平成10年(1998年)には111年ぶりに『多摩の恵』という銘柄で地ビールづくりを復活。無濾過で酵母が生きている要冷蔵、賞味期限2カ月の生ビールを醸造しています。魅力はアイテムの幅広さ。日本で一般的な「ピルスナー」のほか、マスカットのような香りがする「ペールエール」、コクと深い味わいの黒ビール「ミュンヒナーダーク」。この3種を定番に、きれいな藍紫色をした「ブルーベリーエール」など季節ごとに珍しいビール造りにも挑戦。多彩なビールを料理とともに味わえる「福生のビール小屋」は見学を終えた人で賑わっていました。人気のレストランなので訪問前に予約したほうがよいでしょう。
1887年当時のビール窯を展示。
ビールを醸造する「向蔵(むこうぐら)ビール工房」。明治29年(1896年)建造で国の有形文化財。
清酒造りにも使う地下水をぜいたくに用いた地ビールの銘柄『多摩の恵』。
外で呑める場所もある!
紅葉、地面を絨毯のように覆う落葉、純白の雪景色、新緑、桜と季節折々の情趣を愛でながら清酒や地ビールを呑む。石川酒造にはそんな至福の空間が設定されていて感激しました。場所は樹齢700年のケヤキ近く、昭和30年代まで使われていた井戸の周囲です。木陰のやわらかな光を浴び、地下水の流れる音に耳を澄まし、敷地内の売店「酒世羅」で求めたお酒と自家製つまみを味わう。こんなぜいたくな酒場はそうないでしょう。栓抜き、酒杯も用意されていますが、お弁当、食べ物の持ち込みは遠慮くださいとのことです。
樹齢700年を経たご神木「石川家のケヤキ」。幹周は4.48m、福生市指定天然記念物。
深さ20mまで掘られた井戸。まわりは「井戸裏」と呼ばれる憩いのスペース。
最後は清酒の試飲!
本音をいえば、見学最後の清酒試飲タイムを訪問前、何より楽しみにしていました。石川酒造の清酒、地ビールの全種が揃う売店「酒世羅」で橋本さんが用意してくれたのは特徴的な3種の清酒。ぐい呑みでいただき、豊富な種類のなかから何を買って帰るか大いに悩みます。悩みはできれば避けたいものですが、清酒選びの悩みは大歓迎。最近、好んで呑んでいる清酒は「ワイングラスでおいしい日本酒アワード」で選ばれたもの。ワイン感覚でさらりと呑めるけれど、淡白過ぎず米の旨味と風味をバランスよく引き出した純米酒。そんな清酒『多満自慢 純米無濾過』を選びました。2016年の審査で金賞に輝いた銘酒です。
自社醸造の清酒、地ビール、自家製のお酒の肴のほか、オリジナルグッズも販売する「酒世羅」。
「酒世羅」の店内か外(大人数の場合)で清酒を試飲。
だいたい3種の清酒を試せるそうです。
多種多様な清酒から妻へのお土産の一本を選ぶのにとても悩みました。
余韻が酔いを深める
秋晴れは午後も続き、ポカポカとした陽が射しこむ帰りの電車車内では、ほろ酔いから眠りに落ち、東京駅まで熟睡。快楽に溺れる頭で今度は多満自慢ファンの妻も連れて幸せな時間を共有したいと思いました。そう思えたのは夫婦ケヤキのご利益かもしれません。
帰宅後の晩酌で、早速一升瓶を開けて無濾過純米酒をお気に入りのグラスに注ぎ、燻製チーズを肴に堪能。美酒になごみつつ、眼に浮かんだのは酒蔵の情景。酒が生まれる場の光と空気を想いながら呑む。すると、清酒がいっそうとおいしく体と心に沁みるように感じました。これぞ、酒蔵見学の醍醐味といってもよいかもしれません。また、天気のよい日に再訪しよう。その日が待ち遠しくなりました。
見学後、「井戸裏」にて、香りよく鋭い苦味の地ビール「TOKYO BLUES」を呑み、陶然とした気分に。
家で晩酌。燻製チーズを民藝の皿に盛り、アフガニスタンのヘラートグラスに清酒を注いで愉しみました。
【石川酒造株式会社】土蔵散歩・見学(見学料は無料)
- 住所:東京都福生市熊川1番地
- 予約方法:下記の問い合わせ先へ電話にて見学希望日前日までに申込み
- 問い合わせ(平日10:00~17:00):042-553-0100
- 開催日:通年(土日祝日も開催) ※年末年始、仕込みの繁忙期は休み
- 開始時間:[1回目]10:30~ [2回目]14:00~ [3回目]16:00~ ※所要時間は約1時間
- HP:http://tamajiman.co.jp/tour/
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- 東京佃島生まれ育ちの江戸っ子。旅行ガイドの編集者。
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