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アドリア海の真珠~クロアチアのドブロヴニク(世界遺産1979年登録)
目次
1. クロアチアとは
クロアチアという国は日本にはあまり馴染みがないと思いますが、2022年のサッカーワールドカップ(カタール)で、1-1からPKにもつれ込んで、3-1で日本が破れた相手国。白地に赤のチェック柄のユニフォームのチームと言えば、ご覧になった方は思い出されるかも知れません。
その当時の平均身長で世界10位の背高のっぽの国です。ちなみに、日本は世界112位でした。スラブ民族と云えば、どの国も高身長です。
2009年2月8日、クロアチアのアドリア海に面した美しい街、ドブロヴニクに行ってきました。歴史上どの様な役割をし、支配層が変遷したのか理解しないと、この街は語れません。
2. クロアチア・ドブロヴニクの歴史
(1) 起源は古く、ローマ時代
(2) 11世紀には、イタリアのベニス共和国の影響下にあり、発展。14世紀半ばにはベニスのコントロールを脱し、ラグーサ共和国として独立
(3) 15世紀にはオスマントルコが進出してきて、イスラムとの闘いの最前線になる。そのため、代々街は強固な要塞として城壁が建設されていく。ベニスがオスマントルコとの戦闘にかられているとき、ベニスが独占していた貿易の役割を肩代わりすることにより、大きな利益を街にもたらした
(4) 16世紀にこの共和国は最盛期を迎えるが、その当時、バスコ・ダ・ガマによる喜望峰周りの航路が発見されると、香料貿易で栄えていたアドリア海交易は次第に衰退していった
(5) 共和国は1805年にナポレオンにより解体され、その後オーストリア領となる
(6) 第一次世界大戦の結果、また解体されて、ようやく1929年にユーゴスラビアとなる。第二次世界大戦中は、1943年にナチスドイツ軍の占領下におかれた。1944年にチトー率いるパルチザンがドゥブロブニクに入ってドイツから解放している。東欧の国でソ連軍の力を借りずに、独自の軍でナチスから解放したのは、ユーゴスラビアだけ。それで戦後もソ連の支配下ではなく、独自路線を貫いた
(7) 1991年にクロアチアとして独立。その際の内戦ではユーゴスラビア連邦軍に攻撃され、かなりの被害が出た
3. 美しいドブロヴニクの城壁の成り立ち
<美しい城壁に囲まれたドブロヴニク>
今では、内戦の被害から立ち直り、かつての美しい街の姿を取り戻しています。
街はイスラムとの最前線になっていたため、街全体を要塞化する必要があったようです。このような歴史で、戦争が日常のような状況では仕方ないでしょうが、今では写真のような美しい城壁に囲まれた街が残されました。
イスラムとの境界線だった影響で、街にはたくさんのカトリックの教会が残されています。ベニスの影響下にあった時期が長いため、建築様式はまるでベニスの大運河に面した華麗な建築と似ています。
4. ネクタイの発祥地
ネクタイって、クロアチアが発生の地だと、ご存知でしたか?
私は今回、英語のガイドさんから聞いて初めて知りました。中世に戦争に出征する夫や恋人に赤いネクタイをつけさせて、無事の帰還を祈ったそうです。その後、ナポレオン軍が兵士の無事のお守りとしてネクタイをつけさせたとか。それがヨーロッパに広がったそうです。
ドブロヴニクも、中世そのままの佇まいですが、イタリア中世都市との大きな違いは、
- 1. ゴミが通りに落ちていない。タバコの吸殻も落ちていない
- 2. 喫茶店・レストランのトイレが綺麗!!便座がちゃんと付いている
- 3. スラブ系の人が多いせいで、女性が綺麗(これは凄くいい!!)
5. いつもの余談(ドブロヴニクには無関係)です。
余談ですが、イタリアのモッツァレラチーズで失敗した件です。
イタリアのモッツァレラチーズは、日本では水牛のチーズと翻訳されて紹介されています。
実は、ナポリ近くの本物のモッツァレラチーズ工場に視察に行ったことがあります。その工場の外の草原で野牛が飼育されていましたが、どうみても水牛ではないので、ここの係の人に聞いてみました。
『水牛の乳が原料と聞いているが、ここには水に入っている大きな水牛はいないのですか?』
すぐに係の人が答えてくれた。
『あのねぇ、イタリアでは水に入っている大きな動物は河馬(カバ)というんだよ!!』
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ドルチェビータ
- 2003年より2011年までイタリア、2014年から2017年まで英国にいました。