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アテネを超える古代の栄華、世界遺産アグリジェントの「神殿の谷」

〜カルタゴとローマが奪い合った、巨人が眠る聖なる地〜
目次
- アテネのパルテノンを超える美しさ。地中海世界を圧倒した「アクラガス」の誕生
- 【カルタゴとローマの戦い】地中海の二大巨頭に挟まれたアグリジェントの悲劇
- 「ローマの穀倉」から現代へ。ムッソリーニが変えた街の名前
- 【大注目!】アグリジェントの興味深いエピソードと奇跡の神殿
- 一人旅を極上の時間に変える、特等席ホテル「ヴィラ・アテネ」
- いつもの余談
アテネのパルテノンを超える美しさ。地中海世界を圧倒した「アクラガス」の誕生
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<はるか遠くの丘の上にポツンと佇む、美しいコンコルディア神殿のパノラマ遠景。背景には現代アグリジェントの街並みが広がる>
イタリア・シチリア島観光のハイライトであり、世界遺産にも登録されている南部海岸の街アグリジェント。この街の歴史は、紀元前581年頃にギリシャのゲラやロードス島からの入植者によって築かれた植民都市「アクラガス(Akragas)」から始まります。
ギリシャ本土が山がちで痩せた土地だったのに対し、シチリアの広大な大地は極めて肥沃でした。ここで生産された大量の小麦やオリーブ、ワインの貿易により、アクラガスは爆発的な富を築き上げます。古代ギリシャの詩人ピンダロスが「人類の都市の中で最も美しい」と称えたほどで、全盛期には20万人から数十万人もの人々が暮らす地中海屈指の大都市へと上り詰めました。
【カルタゴとローマの戦い】地中海の二大巨頭に挟まれたアグリジェントの悲劇
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<青空に向かって、複数の巨大な円柱と梁の遺構(ヘラクレス神殿またはジュノー神殿)>
しかし、そのあまりの富は、地中海の覇権を握ろうとする二大超大国「地中海の女王カルタゴ」と「新興勢力ローマ」の目を引くことになります。アグリジェントの歴史は、ここから血と火で塗られた過酷な運命へと突入します。
カルタゴ軍による最初の壊滅
最初の悲劇は紀元前406年、北アフリカから海を渡ってシチリアを侵略してきたカルタゴ軍によってもたらされました。アクラガスは約7ヶ月にわたる壮絶な包囲戦の末に陥落し、街は徹底的に破壊・略奪されました。この時に多くの神殿が炎上し、富に溺れた大都市は一度、歴史の表舞台から消え去ることになります。
第1次ポエニ戦争:ローマとカルタゴの激突
その後、都市は再建されるものの、紀元前3世紀にローマとカルタゴがシチリアの覇権を巡って激突した「第1次ポエニ戦争」で、再び悲劇の舞台となります。
紀元前262年、カルタゴの主要な軍事拠点となっていたこの街を、ローマ軍が包囲しました(アグリゲントゥムの戦い)。数ヶ月に及ぶ飢餓戦の末、ローマ軍が勝利を収めましたが、街は再び容赦ない略奪に遭い、2万5千人以上の市民が奴隷として売り飛ばされてしまったのです。
第2次ポエニ戦争: betrayal(裏切り)とローマへの割譲
さらに「第2次ポエニ戦争(紀元前210年)」でもカルタゴに再占領されましたが、最終的にはヌミディア人傭兵の裏切りによってローマの手へと落ちました。こうして何度も勝者と敗者が入れ替わり、そのたびに富を吸い尽くされたアグリジェントですが、最終的にローマの完全な支配下に入ったことで、ようやく長い戦争の時代が終わりを告げます。
「ローマの穀倉」から現代へ。ムッソリーニが変えた街の名前
ローマの支配下に入ると、街は「アグリゲントゥム(Agrigentum)」と名を変え、今度は「ローマの穀倉(グラナリア)」として、巨大帝国の食糧を支える重要な農業都市へと生まれ変わりました。ラテン語の「アグリ(Agri=農業)」と「ジェント(Gentum=人々)」を組み合わせたこの名は、「農業を営む人々」という意味そのものでした。
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<逆光に浮かび上がる、太いドリス式の円柱群>
帝国の崩壊後は、ビザンツ帝国、アラブ、ノルマンなど様々な民族に支配され、街の中心は神殿のある丘から、防御に適した北側の高い丘(現在の旧市街)へと移っていきます。それに伴い、街の名前もシチリアの古い方言から「ジルジェンティ(Girgenti)」と呼ばれるようになりました。
この街が再び「アグリジェント」の名を取り戻したのは、なんと20世紀に入ってからのことです。1920年代にイタリアの政権を握ったムッソリーニが、ファシズム政権の象徴として「大ローマ帝国の栄光を復興させる」という政治的野心から、古代ローマ時代の方言である現在のアグリジェントへと名前を強制的に戻させたのです。私たちが今使っている街の名前には、そんな近代の政治的思惑の歴史も隠されているのです。
【大注目!】アグリジェントの興味深いエピソードと奇跡の神殿
なぜコンコルディア神殿はパルテノンより美しい姿で残ったのか?
アグリジェントの「神殿の谷」には7つの神殿が並んでいますが、その中で圧倒的な保存状態を誇るのが「コンコルディア神殿」です。
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<黄金色のコンコルディア神殿の正面>
アテネのパルテノン神殿が後世の戦争(爆発事故)で無惨に大破してしまったのに対し、このコンコルディア神殿がこれほど無傷で残ったのは、紀元6世紀にキリスト教の教会(聖ペテロ・パウロ教会)として転用されたためです。異教の神殿は通常、キリスト教徒によって破壊される運命にありましたが、頑丈な構造をそのまま礼拝堂として利用したことで、中世の破壊や地震から奇跡的に守られることになりました。
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<神殿の内部空間。奥には白い女性の彫像が立ち、両サイドの壁にはアーチ型のくり抜き(教会の名残)が見える>
建築技術の驚異:聖徳太子の1000年前の奇跡
このコンコルディア神殿の建築時期は紀元前5世紀(紀元前440年〜430年頃)。日本で聖徳太子が生まれたのが西暦574年(紀元後6世紀)ですから、それよりも1000年も前に、これほど寸分の狂いもない巨大な石造建築を建てる技術がこの地中海世界に存在していたという事実は、何度考えても驚嘆せざるを得ません。
遺跡に横たわる「悲劇の巨人・テラモン(アトラス)」
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<地面に横たえられた、砂岩でできた巨大な人間型の石像。後ろには現代の市街地が見える>
大聖堂の谷のもう1つの大きな見どころが、オリンピア・ゼウス神殿の跡地です。ここはかつて古代世界最大級の神殿になる予定でしたが、前述のカルタゴ軍の襲撃により未完に終わりました。
この地面に横たわっている巨人は「テラモン(またはアトラス)」と呼ばれる人型柱です。紀元前480年にギリシャ植民地連合がカルタゴ軍を打ち破った際、捕虜となった大量のカルタゴ人奴隷を使ってこの巨大神殿を建てさせ、梁を支える柱として「カルタゴの巨人が神殿を支えて苦しむ姿」を模して造られたものだと言われています。
※ちなみに近年、20年以上の研究を経て、この巨人の一体が遺跡内に垂直に立ち上げられて公開されたことも世界的なニュースとなりました
一人旅を極上の時間に変える、特等席ホテル「ヴィラ・アテネ」
このアグリジェントを訪れるシニアの一人旅に、私がどうしてもおすすめしたい究極のホテルがあります。
それが、神殿の谷の敷地内に位置する唯一の5つ星スターホテル「ヴィラ・アテネ(Villa Athena)」です。
ここの最大の魅力は、なんといっても部屋のベランダやテラスからライトアップされた神殿の谷の絶景を独り占めできることです。
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<夕暮れ時の紫色の空(マジックアワー)に、温かいオレンジ色のライトで浮かび上がるコンコルディア神殿>
神殿側の部屋を予約すれば、夜、ベランダで冷えたビールやシチリア特産の赤ワインを片手に、暗闇に浮かび上がる紀元前の遺構を静かに眺めるという、これ以上ない贅沢な時間が過ごせます。
さらに、ホテルのテラスレストランでは、この感動的な夜景をバックに、心地よいジャズ系のライブバンドが演奏を披露してくれます。極上のシチリア料理とワイン、そして音楽に包まれる夜は、一人旅の孤独を最高のロマンスへと変えてくれるでしょう。
いつもの余談
最後に、大阪城にまつわる「信じるか信じないかはあなた次第」......ではなく、100%事実の余談をひとつ。
豊臣秀吉の城としてあまりにも有名ですが、実は初代の天守閣は1615年の「大坂夏の陣」で徳川軍によって跡形もなく破壊されてしまいました。
その後、徳川が再建した2代目も落雷で焼失。
では、今私たちが目にする3代目の天守閣はいったい誰が建てたのか?
大阪のシンボルとしてそびえ立つ天守閣ですが、「秀吉公の歴史ロマン」を感じながら上まで登る、現代の文明の利器「エレベーター」が優雅に稼働しています。それもそのはず、あの天守閣を建てたのは、豊臣家でも徳川家でもありません。昭和の世に現れた最強の建設集団、大林組さんです。大坂夏の陣で燃え尽きた天守閣を、1931年に市民のお金と大林組の最新技術(※当時)で見事に大復活させました。
つまり、現在の大阪城は「歴史的建造物」というより、「大林組の最高傑作(築90年超)」。次に行かれる際は、ぜひ秀吉ではなく「ゼネコンの底力」に思いを馳せてみてください。
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ドルチェビータ
- 2003年より2011年までイタリア、2014年から2017年まで英国にいました。



























