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【長崎】壮大な廃墟の中に感じる人々の生活!!~タイムカプセルのような軍艦島に行ってみよう~
みなさんこんにちは!歴旅ライターまえてぃーです。
今回ご紹介する場所は、まえてぃーがずっと行きたかった場所、「軍艦島」です。名前を聞くとギョッとするような印象ですが、海に浮かぶ軍艦のように見える「軍艦島」は、その昔、日本の主力エネルギーを支えていました。今では世界遺産にも登録された、実はスゴイ場所なんです。それでは早速いってみましょう。
目次
軍艦島へのアクセス
軍艦島は、正式名称は「端島(はしま)」と言いますが、ここでは通称の「軍艦島」と呼ばせていただきます。
軍艦島へのアクセスは、長崎市内にある5つのツアー会社によるツアーに参加することで行くことができます。午前・午後の1日2便が運航しています。今回まえてぃーは「軍艦島クルーズ」のツアーで参加しました。
軍艦島クルーズ株式会社
- 住所:〒850-0035 長崎県長崎市元船町11−22(軍艦島クルーズの受付住所です)
- 電話番号:095-827-2470
- 【ツアー料金】乗船料大人3,600円/小人1,800円
※別途端島施設見学料として大人310円、小人150円がかかります
黒とオレンジの船の名前は「ブラックダイヤモンド」といい、とてもカッコいいです。そのときの天候や波の状況により、軍艦島の周遊のみか上陸までできるかが決まるそうです。
軍艦島とは
軍艦島は、長崎県長崎半島から西に約4.5キロ、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km、長崎港から南西に約18キロの沖合に位置しています。正式名称は「端島(はしま)」といいます。南北約480m、東西に約180m、周囲約1,200m、その面積は6,500平方メートルという小さな島なのですが、岸壁が島全体を囲うように存在し、高層マンションなどの高い建物が並んでいる外観が軍艦「土佐」に似ていることから、「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。
今は無人島となっていますが、2009年以降、ツアーでの上陸が可能になりました(安全のため見学場所は限られています)。また2015年には、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録されました。
高島で軍艦島について知る
では早速、ブラックダイヤモンド号に乗船して軍艦島に行きましょう。船は1Fエリアと2Fエリアがあり、2Fエリアには屋根がありません。天気がいいと最高のクルージング体験もできそうです。船上では、ガイドさんによる軍艦島の歴史を聞くことができ、乗船する前に軍艦島に関する知識を入れることができます。
途中高島に上陸し、軍艦島の模型を見ながら、ガイドさんの案内を受けることができます。高島は有人の島で、高島出身のガイドさんの案内で、軍艦島の模型を使いながらの説明を聞くことができます。今までは写真やテレビの中でしか知らなかった軍艦島を、なぜそこに人が必要だったのか、どんな人々が生活をして、どんな暮らしがあったのかを、詳しく知ることができました。また、石炭資料館もあります。
非常に精巧な模型ですが、あまりの街の規模に驚きました。
ネコがたくさんいました。
いよいよ軍艦島へ上陸
いよいよ軍艦島が見えてきました。テレビの世界がすぐそこにあります。船内ではツアー参加者のテンションも上がってきました。
参加者から歓声があがります。
遠くから見ると確かに軍艦のように見えます。
よく見ると大きな建物が立ち並んでいます。
桟橋に船をつけ、上陸すると、道は見学者用に舗装され歩きやすいです。
当時の活性ぶりを創造するとドキドキしてきますね。
見学できるポイントは広場になっており、3か所あります。まず、第1見学広場では、第二堅坑入坑桟橋跡を見ることができます。主力抗だった第二堅坑を含めた鉱山施設はもうほとんどが崩壊していますが、第二堅坑に行くために設けられた昇降部分がかろうじて残っています。
右に支えられた階段があります。
ここで軍艦島の歴史ですが、1810年、軍艦島での石炭が発見されました。1887年には第一堅坑が開坑されました。それ以降、第四堅坑まで開坑し、1941年には年間出炭41万トンを達成し、日本を支えていました。その後、主要エネルギーであった石炭がその座を石油へと移ることにより、衰退。1974年1月15日に閉山。そして、この年の4月20日に全ての住民が島から離れ、軍艦島は無人島となりました。
今では無人島の軍艦島ですが、軍艦島は人口的にも急成長を遂げ、1960年(昭和35年)には5,267人が住んでいました。当時の人口密度はなんと世界一だったそうで、東京の人口密度の9倍以上とも言われるほどでした。もちろん炭鉱関係者が住んでいましたが、その家族、その家族を支える人々も住んでいました。島内には、病院や学校、お寺に神社、映画館やパチンコ、子どもたちの遊園地などの娯楽までも存在し、まさに完全都市でした。
1916年に建てられた30号アパートは日本最古、つまり日本最初の鉄筋コンクリート造りのアパートと言われています。それだけ日本が力を入れていた場所だったということでしょうか。鉱員の住宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、売店や郵便局もありました。
左奥が30号棟アパートです。100年以上も前に建てられたんですね。
また、鉱員たちの働き方ですが、1日12時間労働の二交代制で働いていたそうです。坑内にはガスがあるため火気厳禁です。ライターなどの火の気のないものを持っていないかをチェックし、エレベーターに乗り込み海底約600mまで降りていきます。日の光が入らない海底の世界での12時間の労働は、私には想像できませんが、それらが当時の日本を支えていました。
その後、第2見学広場、第3見学広場と周り、所要時間は約40分です。写真撮影もすることができました。
こちらはプールの跡地だそうです。海水を利用していたそうですが、25mプールに加え、幼児用のプールまであったそうです。
閉山するとき鉱員とその家族は手当をもらい、日本のさまざまな場所で新しい暮らしをスタートさせたそうです。
いかがでしたか?
たった40分の上陸ですが、そこに至るまでの時間やいざ上陸した時のワクワク感、当時の繁栄を残したまま廃墟化している姿を見ることができることこそが、大きな魅力になっているこの軍艦島へ、ぜひみなさんも行ってみてくださいね!
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まえてぃー
- 元ノリノリ世界史教師。教科書に載ってたり載ってなかったりする世界の歴史ポイントをご紹介。旅のついでにそのロマン溢れた世界をご堪能ください。