金沢の遺伝子を持つ建築家 谷口吉郎

金沢というと「古都」のイメージが色濃いですが、建築視点では、江戸時代から現代まで各時代の特徴が、バウムクーヘンのように積層した街でもあります。

そんな金沢の建築文化に注目する「金沢のチカラ-重層する建築文化―」展が、現在金沢で開催中です。会場である「谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館」は、2019年7月26日金沢中心部の寺町周辺にオープンしました。同建築館がその名を冠する谷口吉郎・吉生 両氏は親子で、どちらも建築家です。同館は、息子の吉生氏によるものです。吉生氏は金沢の鈴木大拙館のほか、国内外の多くのミュージアムや公共施設を手掛けており、最近の設計では、東京銀座に2017年誕生した商業施設GINZA SIXがよく知られています。

目次

清流に育まれた少年時代

谷口吉生は東京生まれですが、父親の谷口吉郎は1904年(明治37年)金沢の九谷焼の窯元の家に生を受けました。場所は金沢の中心部、香林坊から南の犀川方向へ下った大橋近くの片町。今でこそ車の多い街中ですが、当時はずっとのどかでした。今は鉄製の犀川大橋も、明治時代は木造で、橋のあたりで鮎やウグイを釣る人も珍しくありませんでした。

犀川大橋
<犀川大橋 ©冠ゆき>

この橋の近くで育った吉郎氏は、「子供の時にはその川は楽しい遊び場だった」と、1974年日本経済新聞に連載した『私の履歴書』で述懐しています。夏になれば川で泳ぎ、手ぬぐいでメダカをすくい、河原に小石や木片で小さな庭を造って遊んだそうです。

犀川
<犀川 ©冠ゆき>

生家周辺については、城下町にふさわしい「和風建築の店のほかに、ハイカラな洋風スタイルの店も目だち、明治時代の文明開化の気分も片町にただよっていた(同上)」と語っています。そういう伝統的な美意識とハイカラな新風の中で吉郎氏は育ちました。

長い冬を艶やかに彩る伝統

にし茶屋街
<犀川に近いにし茶屋街 ©冠ゆき>

高校卒業後は東大建築学科へ進み、金沢を離れた吉郎氏でしたが、生涯を通して、金沢の風土に受けた影響を感じることが多かったといいます。それは上述の清流でもあり、雪深く暗い冬を灯りと色で演出する北国の伝統でもありました。

なかでも九谷の窯元だった実家で目にした職人のこだわりや色彩豊かな世界は、幼い吉郎氏の目に焼き付き消えることがありませんでした。片町6番地にあったという実家「金陽堂」はすでに存在しませんが、折々の局面において、吉郎氏は自分が窯元の子であることを意識したと語っています。

例えば、1959年金沢の兼六園に完成した「石川県美術館」。古九谷の特別室も設けられている同美術館を設計するときは、「幼い時に見ていた窯の火を眼底に想起し」、自分が窯元の子であることが「今なお意匠心に潜在意識となっている」ことを感じました(同上)。

日本の「無名戦士の墓」千鳥ヶ淵

また、同じころ落成した東京の「千鳥ヶ淵戦歿者墓苑」のための陶棺の焼成に苦心したときも、自らの生い立ちを意識したといいます。「千鳥ヶ淵戦歿者墓苑」は、桜で有名な千鳥ヶ淵のすぐ横にある、緑に包まれた静謐な空間です。フランスなら凱旋門の下、ドイツならベルリンのノイエ・ヴァッヘなどに置かれた「無名戦士の墓」に匹敵するモニュメントです。

千鳥ヶ淵戦歿者墓苑
<千鳥ヶ淵戦歿者墓苑の六角堂 ©冠ゆき>

谷口吉郎の設計で建てられた六角堂の地下には、建設当時で19万柱、現在は37万柱近くもの遺骨が納められています。その納骨堂の真ん中にすえられているのが上述の陶棺です。厚生労働省・環境省による説明には「陶棺は、型式をわが国古代豪族の棺に模したもので、主要戦域から収集した小石を材料とし、1,700度の高熱で処理した。重量5トンの世界最大級の陶製品」とあります。日本人として、一度は訪れておきたい場所のひとつです。

千鳥ヶ淵戦歿者墓苑

  • 公開日:毎日(休苑日なし
  • 公開時間:4月1日~9月30日 9:00~17:00/10月1日~3月31日 9:00~16:00
  • 住所:東京都千代田区三番町2
  • TEL:03-3262-2030

>>千鳥ケ淵戦没者墓苑公式ホームページはこちら


イサム・ノグチとの縁

この千鳥ヶ淵のお濠を越え、東にしばらく進んだ場所にある東京国立近代美術館も、谷口吉郎の手によるものです。落成したのは1969年のこと。この場所を吉郎氏は「過去の日本と近代都市の東京が接触する接点」と表現しています。(同上)美術館の前庭には、イサム・ノグチによるモダン彫刻「門」が立っています。吉郎氏とイサム・ノグチは、これ以前にも東京・三田にある慶応義塾にも協同で新しい研究室のホールと庭園を設計するなど、浅からぬ縁をもちました。

東京国立近代美術館
<東京国立近代美術館 ©冠ゆき>

建て直しなどによりすでに失われたものもあるものの、同氏設計の建築物は、東京だけでも、出光美術館や東京国立博物館の東洋館など、まだまだ現存しています。

日本全国に残る数多くの碑

また谷口吉郎は「その総数は私自身にもはっきりしない」というほど、多くの墓碑や記念碑に携わりました。故郷の金沢には徳田秋声文学碑や、室生犀星文学碑、第四高等学校「北の都」記念碑などを作っていますし、島崎藤村や佐藤春夫、永井荷風、吉川英治、正宗白鳥、志賀直哉、北原白秋などの文学者にかかわる碑も多く設計しています。東京、築地には慶應義塾発祥記念碑が残っていますが、これは、同氏のベルリン出張や戦争が理由で、完成まで二十余年を要した思い出深いものの一つだそうです。

森鷗外「沙羅の木」の詩碑
<森鷗外「沙羅の木」の詩碑 ©冠ゆき>

東京文京区にある森鷗外記念館にも、同氏設計の詩碑が残っています。戦後の依頼ではあったものの、苦しい時代だったため、これもまた計画から完成まで4年かかり、1954年(昭和29年)鷗外の「三十三回忌の命日に当る7月9日に除幕式が挙行」されました。(『記念碑散歩』谷口吉郎編、文藝春秋社, 1979)「スウェーデン産の赤ミカゲを磨き、小豆色の面に「沙羅の木」の詩を刻んだ」(同上)もので、その筆跡は永井荷風によります。

保存と開発の調和を図る

吉郎氏は、建築物の設計を越えて、歴史の保存と開発の調和にも業績を残しました。例えば、明治建築の無思慮な破壊を憂い、風前の灯であった数々の建物の移築保存に尽力します。名古屋鉄道の協力を得て犬山市に誕生した「博物館明治村」はその成果のひとつです。

また、金沢の現在の景観は同氏に負うところも少なくありません。現在香林坊から兼六園に続く通りは、以前は用水の片側だけでした。これが今のように用水と松と桜並木をはさむゆったりとした両側道路となったのは、同氏の提案によるものです。

谷口吉郎・吉生記念金沢建築館

さて、冒頭記した谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館は、香林坊側から犀川を渡った寺町通りに建っています。近代的な建物ですが、通りに面した側には、すだれや庇(ひさし)などの日本的な建築要素を取り入れ、軒高も低く抑えてあるため、周辺との違和感を感じさせません。

谷口吉郎・吉生記念金沢建築館
<谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 企画展示室 撮影:北嶋俊治>

内部は一階がラウンジやカフェ、地下に企画展示室、二階が常設展示室となっています。二階の常設展示室には、谷口吉郎の代表作である迎賓館赤坂離宮和風別館「游心亭」の広間と茶室が忠実に再現されています。

谷口吉郎・吉生記念金沢建築館
<お茶室 撮影:冠ゆき>

この茶室には、茶の作法の心得がない人や外国人も楽しめる独自の形式を採用しています。つまり、畳を敷いた小間が能舞台のような役目を担い、客は椅子席からお点前を鑑賞するとともに、茶も楽しめるようになっているのです。そこここに見られる和の意匠も清々しい空間です。広縁からは、鏡のような水庭が鑑賞でき、その向こうには犀川へとつながる空間が広がります。

谷口吉郎・吉生記念金沢建築館
<広縁から見た水庭 撮影:冠ゆき>

谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館と犀川は、北側の緑多い回遊路でつながっています。建築館鑑賞の後は、谷口吉郎の少年時代を育んだ犀川をご覧になるのもどうぞお忘れなく。

谷口吉郎・吉生記念金沢建築館
<谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 北側外観、撮影:北嶋俊治>

「金沢のチカラ-重層する建築文化―」展

  • 会場:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館
  • 会期:2021年9月12日まで
  • 開館時間:9:30~17:00 (入館は16:30まで)
  • 休館日:月曜(月曜日が休日の場合はその直後の平日)
  • 入館料:常設展は大人310円、企画展は一般800円(高校生以下無料)
  • 住所: 石川県金沢市寺町5-1-18
  • TEL:076-247-3031

>>谷口吉郎・吉生記念金沢建築館公式ホームページはこちら

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冠ゆき

山田流箏曲名取。1994年より海外在住。多様な文化に囲まれることで培った視点を生かして、フランスと世界のあれこれを日本に紹介中。

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