光の画家フェルメール オランダで鑑賞する7枚の物語 【前編】

生涯でわずか37枚の絵画を残した17世紀の巨匠フェルメール。類まれな光の描写と、緻密な構図で描かれた静謐な情景は、今なお人々を魅了し続けます。オランダの美術館で鑑賞できる7作品を、絵画にまつわるエピソードとともにご紹介します。

【前編】はアムステルダム国立美術館 (Rijksmuseum Amsterdam) の4作品です。

目次

『牛乳を注ぐ女』

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<『牛乳を注ぐ女』1660年頃, 45.5 × 41 cm>

簡素な台所でふくよかなメイドが、牛乳をテーブルの上の容器に注ぎいれる情景が描かれています。窓から差し込む光は、テーブルの上のパンや陶器、壁にかけられた籠や真鍮製の入れ物にやわらかく降りそそぎ、何気ない日常の一場面には宗教画のような崇高さが漂います。

肘まで捲りあげた分厚い胴衣や、滑らかな素材のエプロン、リネンのキャップなど、生地の質感までもが写実的に表現され、壁には漆喰の凹凸や染み、釘穴も描かれています。一見すると存在感の薄い窓にも、木枠から外れかけたガラスや、表面の引っかき傷、ガラスの割れ目から入る光などが緻密に描写されています。巾木のデルフトタイルには、キューピッドや長い棒を持つ男性の飾り絵も描きこまれています。

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フェルメールは絵画の構図を綿密に計算する画家でした。『牛乳を注ぐ女』のモチーフは2本の斜めのラインに沿って配置され、鑑賞者の視線はラインが交差する部分、つまりは牛乳へといざなわれます。流れ落ちる牛乳を際立たせるために、本来なら壷の中にも見えるはずの牛乳は描かれていません。

また近年のX線解析で、下絵に描かれていた壁の地図と、床の洗濯物籠が塗りつぶされていることが判明しました。フェルメールは油絵具を乗せていく過程でもなお、主題を明確にするための最良の構図を模索していたのです。支障をきたすモチーフは消され、白一色の壁の前にメイドが浮きあがり、実際に触れることができるかのような三次元性が実現されています。

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<パンや籠、陶器のハイライト表現には、白や明るい色の点を点描するポワンティエ技法が用いられています>

『牛乳を注ぐ女』はカメラ・オブスクラと呼ばれる光学装置を使用して描かれたとする説があります。ピンホールカメラのような仕組みのカメラ・オブスクラは、正確な遠近感の像をトレースしたり、肉眼ではとらえにくい色彩や陰影を見極めるのに役立てられました。フェルメールの絵画のぼやけた輪郭や、ポンワンティエ技法で表現されたきらめく光の粒も、カメラ・オブスクラを通して発見されたものかもしれません。

1908年にアムステルダム国立美術館が『牛乳を注ぐ女』を購入した際、オランダ政府とレンブラント・ソサエティが資金を援助しています。政府が絵画購入に介入し、公的資金を投入するのは前例のないことでした。フェルメールの技巧が凝縮され、勤労や節制という17世紀オランダの美徳を物語る『牛乳を注ぐ女』は、オランダ人にとってそれほどに貴重な作品なのです。アムステルダム国立美術館は「疑問の余地なく当美術館でもっとも魅力的な作品の一つ」と讃えています。

『青衣の女』

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<『青衣の女』1663年頃, 46.5 × 39 cm>

『青衣の女』はフェルメールの画業の最盛期である1660年代半ばに描かれました。アムステルダム国立美術館が初めて購入したフェルメールの作品で、1885年に現在の美術館がミュージアム広場に建設されて以来、珠玉の名画が並ぶ「名誉の間」で鑑賞者を魅了しています。

青い衣服をまとった女性は、おぼろげな光につつまれて手紙を読んでいます。両手でしっかりと手紙を持つ様子や、半開きの唇からは、女性が夢中で文字を追っていることが窺えます。左上にあるはずの窓は、部屋に満ちる光と陰影で示唆され、さらにフェルメールの室内画には珍しく、壁や天井の角も描かれていません。簡潔にまとめられた背景に、女性の姿が幻想的に浮かび上がります。

手紙の送り主については様々な解釈がなされてきました。テーブルの上に置かれた真珠が、虚栄心や自惚れの象徴であることから、手紙の送り主は女性の恋人だとする説や、椅子が2脚描かれ、ネーデルラントの地図がかけられていることから、航海中の夫が妻に宛てた手紙だとする説もあります。

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<『婦人と召使』(左)や『手紙を書く婦人と召使』にも手紙が描かれています>

手紙はフェルメールがよく描いたモチーフのひとつです。当時のオランダでは、商業の発展にともない郵便制度が飛躍的に発達しました。市民の識字率の高さも相まって、手紙やラブレターのやり取りが流行すると、絵画にも手紙が登場するようになったのです。フェルメールも手紙をテーマにして、様々な恋物語を描きました。

フェルメールの室内画には、地図もよく描かれています。17世紀に黄金時代を迎えた貿易大国オランダは、卓越した地図製作技術を誇っていました。地図を室内の装飾として使用するという方法も普及し始めます。フェルメールは地図を描くことによって、世界の覇者オランダの誇りを表現しました。

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<『士官と笑う娘』には『青衣の女』と同じ地図が掛けられていますが描かれ方は全く異なります>

女性のモデルはフェルメールの妻カタリーナで、妊娠中に描かれたとする説もありますが、真相は定かではありません。生命の神秘さえ感じさせる『恋文』は、フェルメールが描いた最も静謐な絵画のように思われます。金色に染まる地図や、ほとんど全てのモチーフを正面または真横から描く図法は、神聖な古代芸術を彷彿とさせ、三角形をなす女性の青衣は、透き通る光を内に宿しているかのようです。

小路

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<『小路』1658年頃, 54.3 × 44 cm>

『小路』はデルフトの町を描いた作品で、フェルメールの現存する2点の風景画のうちのひとつです(もう1点は『デルフトの眺望』)。青空をのぞかせる雲を背景に、三角屋根や煙突がリズミカルに配置され、軽やかな印象を与えます。レンガのひび割れや、建物に塗られた漆喰、繊細な窓枠、古びた鎧戸などが緻密に描写されています。右側に描かれた後期ゴシック建築の階段状破風には、当時でも稀少なスリット状の銃眼が設けられています。

フェルメールは1632年にデルフトに生まれました。父親のレイニエルは絹織物職人をしながら、自身の経営する居酒屋兼宿屋で画商を営んでいました。父親の「画廊」を訪れる画家やその作品に、フェルメールは少なからず影響を受けたと言われています。1653年4月、フェルメールは21歳の時にカタリーナ・ボルネスと結婚、同年12月には聖ルカ組合に親方画家として登録されています。画業においてカレル・ファブリティウスに師事したとの説もありますが、記録は残されていません。

フェルメールは年に2、3枚のペースで作品を仕上げる寡作の画家でした。その理由には、弟子がいなかったことや、父親から継いだ宿屋と兼業で絵を描いていたこと、デルフトのたった一人のパトロンにのみ絵を売っていことが挙げられます。生涯のほとんどをデルフトで過ごしたフェルメールの作品が、今や世界中の人々を夢中にさせているのは、なんとも不思議な巡り合わせです。

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<通りで遊ぶ子供たちや家事にいそしむ女性は長閑な暮らしを物語ります>

2015年、アムステルダム大学のフランス・グライゼンハウト教授が、『小路』に描かれた場所を特定する研究を発表しています。17世紀のデルフトでは家の間口に基づいて税額が算定され、納税資料には建物の間口寸法と税額が記録されていました。グライゼンハウト教授は『小路』に描かれた外壁のレンガを数えて二軒の間口寸法を算出し、これと一致する場所がデルフトにたった一箇所しかないことを突き止めたのです(フラミング通り 40ー42)。

しかも右側に描かれた建物は、フェルメールの叔母のものであったことも判明しました。斜向かいにはフェルメールの母と妹の暮らした家があり、近くにはフェルメールのアトリエもあります。この発見をうけてアムステルダム国立美術館では、2015年11月から翌年3月まで『発見された小路』展が開催されました。

一方で、『小路』は特定の場所を描いたものではないとする専門家の声もあります。1658年頃に『小路』を制作するまでの人生でフェルメールは、結婚して生家を離れ、父親の最期を看取り、さらには1654年の火薬塔爆発事故でデルフト市街の4分の1が破壊される大惨事を目の当たりにしています。もしかすると『小路』は、フェルメールのデルフトへの郷土愛や、過去への憧憬、そして移りゆく命への想いが込められた心象風景なのかもしれません。

『恋文』

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<『恋文』1669 - 1670年頃, 44 × 38.5 cm>

椅子に腰掛けてシターンを手にする女主人に、メイドが手紙を渡す瞬間が描かれています。戸惑いを見せる女主人と、訳知り顔のメイドの表情は対照的で、鑑賞者の想像力をかきたてます。女主人が着ている毛皮のついた黄色のサテンのコートは、フェルメールの他の幾つかの作品にも登場するもので、同時期に制作された『婦人と召使い』にも、同じコートをまとい、メイドから手紙を渡される女性が描かれています。

画面の手前と奥をタペストリーで分ける構図や、遠近法の効果を高める白黒のタイルは、『絵画芸術』や『信仰の寓意』でも用いられた技法です。ただし『恋文』では手前の部屋が極端に暗く描かれ、鑑賞者の視線は明るい部屋にいる2人へといざなわれます。フェルメールはピーテル・デ・ホーホの『オウムと男女』や、ファン・ホストラーテンの『部屋履き』の構図やモチーフを参考にしたと考えられています(下図参照)。

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<左:『オウムと男女』ピーテル・デ・ホーホ, 1668年, ヴァルラフ・リヒャルツ美術館/右:『部屋履き』ファン・ホストラーテン, 1658年頃, ルーヴル美術館>

『恋文』には様々な象徴が仕掛けられています。女主人の手にするシターンは愛の象徴であることから、届いた手紙が恋文であること、壁にかけられた穏やかな海景図は報われた愛を象徴することから、女主人には幸せな結末が訪れることが読み取れます。

また、床に脱ぎ捨てられた部屋履きや、無造作に立て掛けられた箒、洗濯物の入った籠は、色恋沙汰に興じて家事をおろそかにする女主人のふしだらな生活を暗示しています。フェルメールはモチーフを駆使して、女主人の恋物語を周到に演出しつつ、貞節や勤勉という道徳を説いたのです。

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フェルメールは絵画のために、多種多様なモチーフを集めることに余念がありませんでした。手紙や地図、高級な真珠や毛皮は当時の流行を取り入れたものです。科学技術に関心の高かったフェルメールは、『天文学者』に天球儀やアストロラーベ(天体の角度を測る器械)を、『地理学者』には地球儀やコンパスを描いています。

当時のデルフトがオランダ東インド会社の拠点として繁栄していたことから、海外から輸入されたモチーフも豊富に描かれました。アントワープ製の弦楽器、ドイツ製の高級陶器、イタリアや中国産の磁器、トルコの高価な絨毯、北アメリカのビーバーの皮製の帽子、日本から渡った着物など、国際色豊かなモチーフは大航海時代のグローバリゼーションを反映しています。デルフトの片隅で、フェルメールのカンヴァスは世界と繋がっていたのです。

【後編】に続きます。

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Kayo Temel

オランダ在住。アムステルダムの美術アカデミーで絵画を学び、イラストレーターとして活動中。20年の在蘭経験を活かして、オランダを満喫するためのローカルな情報をお届けします。

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