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関ヶ原の戦いのきっかけは、あの智勇兼備の名将と言われている『直江兼続』だった!?

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最終更新日:2017/08/03

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こんにちは。駆け出し歴女のあかりです!

もうすぐ、私の大好きな戦国武将"石田三成"にスポットを当てた映画『関ヶ原』が公開されます!もう、すでにワクワクが抑えきれません!

これを機にいたる所から情報を集めてみなさまに歴史のおもしろ話をお届けするとともに誰もが驚く歴女を目指したいと思います!

早速ですが、みなさま。関ヶ原のきっかけはあの智勇兼備の名将と言われている『直江兼続』だった!?という話があるのはご存知でしょうか?石田三成と仲良しだったことで知られている直江兼続ですが上杉家を脅威に感じていた徳川家康に言いがかりをつけられたというのです。

徳川家康はとにかく存在が大きかった上杉家を倒したかったため、会津のために、インフラ整備に奮闘する、上杉景勝の家老・直江兼続に対して『わしの許しもなく、会津領内の橋の架け替えを行ったり、城を修築したりこれは俺に対して反旗を翻している証拠だ!直ちに上洛し、弁解しにこい!』と言いがかりをつけ始め、それに対して兼続は以下のような書状(通称:直江状)を家康に送りました。

以下、直江状の内容を現代語で少し再現してみました!

20170801_kane.jpgいやいやいや~。まだ会津は国替えをしたばっかりでちゃんとしていなかったので

畑もたがやさないといけない。
石高も上げないといけない。
川整備・護岸工事をしないといけない。
あっちこっち整備をしないといけない。
全て領民のためにやっているのに、何を仰っているのですか!?
いわれのないことを言われて、そんなことを仰るのは家康様自体に二心があったからではないでしょうか?

といった感じでしょうか??

その直江状ときたら、それはそれは家康に喧嘩を売るような内容だったようでズバッと的を得た兼続の文面に激怒した家康はこの書状をきっかけに、上杉を討伐しようと決意したそうです!

家康は反抗的な上杉家(兼続)を討伐するため会津に向かい、それを知った石田三成は、家康が大軍を率いて会津に向かったことで京都が手薄になっていたため、今だ!と言わんばかりに西日本の大名に声をかけ西軍を発足し家康の居城である伏見城を攻めました。

一方、京都から会津に向かう家康は、宇都宮にある小山というところで『本当にわしについて来る気はあるのか!?』などと今後の方針について話し合う軍議『小山評定』を行われておりました。その際、各大名に『三成側につきたい者は、出ていってもかまわぬ』とかなりの強気で言ったそうです。

しかし、当時の石田三成と言えば真面目で不器用、曲ったことが許せないといった性格から、仲間の反感や恨みをかっており相当な嫌われようであったため、小山評定では三成の味方につく者はおらず、豊臣側の大名までも家康側についてしまった者もいたとのこと。

一説には家康が三成をおびきだすためとも言われている上杉討伐ですが、このことが引き金となり関ヶ原の戦いが始まったことから、石田三成と上杉家の家老・直江兼続は事前に話をし共謀していたのでは...といった説が出たそうです。

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最終更新日:2017/08/03

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