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行基さんの奈良・喜光寺の蓮の花
目次
1. はじめに:蓮の花を見るには、蓮の花の話
<約50種・250鉢のハスを境内で育て、「ハスの寺」として知られる喜光寺>
ある年の7月初旬。梅雨の真っ盛りでしたが、午前中だけ青空が出るという天気予報のとおり、部分的に晴れ間が表われたので、奈良の喜光寺(きこうじ)に蓮を撮影しに行きました。
先に言っておきますが、蓮の花を見るには午前中の早い時間帯がベストです。
蓮の花は日の出と共にゆっくりと時間をかけて咲き始めます。8〜9時頃の間に満開を迎え、またゆっくりと時間をかけてしぼんでいき、午後には蕾へと戻ります。これを3~4日繰り返し、そのまま力尽きて、翌日には散ってしまいます。
蓮の花の原産国はインドです。インドの国花が蓮の花です。仏教やヒンドゥー教などのインドゆかりの宗教にとって大切な花です。
ご存知のごとく、仏教においては、蓮の花は慈悲や知性の象徴とされ、死後に行く極楽浄土に咲いている花として崇められています。蓮の花が生息しているのは泥水がある池などであり、茎をのばして綺麗な花を咲かせるのが、清らかな存在として、仏教の経典の中に登場します。
仏陀、仏像、奈良の大仏が蓮の花の上に胡座で鎮座している姿が見られるのは、蓮の花が聖なる花として使われているのです。
歌手・中島美嘉さんのファンクラブは『Lotus』という名前です。その世界では蓮の花好きなアーティストとして知られています。
彼女のCDのジャケットにはたくさんの蓮の花が使われています。ファンクラブのロゴにも蓮の花が使われています。ライブの舞台にも蓮のロゴが使われており、さぞかし彼女のスローバラードを座ってゆっくり聴けると思いきや、オープニングの曲が、「GLAMOROUS SKY」というロック・ミュージックだったので、曲が始まると、当然のごとく観客は総立ちで踊り始めたのでした。。。
<紅蓮華(ぐれんげ):紅蓮華は仏の大悲から生じる救済を意味する>
<境内に散在していた石仏を一か所に集めたもの。不動明王や観音菩薩、地蔵菩薩、阿弥陀如来など47体もある>
2. 奈良時代の建設の天才、行基さん
喜光寺は、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)と縁が深いお寺です。
行基菩薩は、現代まで「行基さん」と親しく呼ばれている人で、仏籍にあった方です。色んなお寺の開基に関わっていたため、当初、奈良時代の建築業者であったに違いないと考えられていました。
この方は、お寺を建てただけでなく、橋、港湾、農業灌漑(かんがい)のため池(日本最古のダム)など建築一般に関わっていて、とても一介のお坊さんの枠にはまるような人ではなかったように思います。行基さんがあたった建築について、喜光寺公式サイトには以下の記述があります。
行基菩薩のあしあと
行基菩薩はご生涯に多くの寺院、池や川、橋や港を整備されました。『行基年譜』によると四十九院とよばれる僧尼院に加え、15の池、13の水路や川、6つの橋、2つの港、9つの布施屋を整備されています。これらは畿内に造られたものだけで、諸国にはもっと多くの恩恵をうけた人びとがおられたと考えられます。【喜光寺 公式サイトより引用】
行基さんは、49のお寺を開基しています。喜光寺は平城京内に造られた唯一の寺院ですが、平城京の地に建立したことで、その時の朝廷から弾圧を受け、大阪の和泉に帰って活動していました。
しかし、724年に元正天皇は譲位し聖武天皇が即位し、聖武天皇は行基菩薩の布教活動・社会事業を評価され、それ以後、行基さんの布教活動・建築活動の中心として喜光寺の存在がありました。
<白蓮華(びょくれんげ): 白蓮華は煩悩に穢されない清浄な仏の心>
<紫などの鮮やかな色合は熱帯種の特長です>
3. 奈良の大仏の建立責任者に抜擢された行基さん
私は建築の専門家ではありませんが、当時の建築技術でこれだけたくさんの建築物を建立したのは奈良時代の建築の天才であったろうと思います。
彼が生きた8世紀の日本には大きな問題がありました。天然痘という、今では人類が克服した感染症ではありますが、当時の政権の重鎮もこのウイルスに倒れています。当時の日本も昨今のようにウイルスのパンデミックに悩まされていたわけです。
聖武天皇から天然痘を抑えるために大仏建立を発願され、行基さんに建築を発注されたいきさつも、公式サイトに以下のように紹介されています。
聖武天皇との出会い
724年に、聖武天皇は行基菩薩の布教活動・社会事業に理解を示され、731年には行基菩薩の弟子に出家を許しました。行基菩薩は、すでに64歳になっておられました。行基菩薩と民衆の力は、聖武天皇の恭仁京や紫香楽宮の造営の原動力になったのです。
そんななか、743年に聖武天皇は、鎮護国家を願って盧遮那仏の造営を発願されます。時に行基菩薩は76歳でした。大仏造立の詔には「人、情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」とあります。盧遮那仏の造立を手伝いたいという者は、だれでも許せという言葉には、人びとによりそって活動された行基菩薩の教えがあるのです。【喜光寺 公式サイトより引用】
<この花は蓮ではなく、モネも描いた睡蓮(すいれん)です>
これって、別の角度からみたら、建築・美術のボランティア募集とも考えられますね。
天平15(743)年、聖武天皇の詔によって大仏像は鋳造されたもので、大仏鋳造と伽藍(がらん)造営は国力を注いだ一大事業であり、工事に携わった人は、有給・無給のボランティアは合わせて、延べ260万人余と言われています。
余談ですが、カイロ郊外のギザにある最も巨大なクフ王のピラミッドに動員された人数が、約2万~2万5千人と言われていますから、天然痘の終息を祈念して、その当時の多くの老若男女が大仏建立に参加していたように思います。
4. 才能ある人に定年はない
行基さんには、76歳にして大仏と大仏殿の建立の発注を受け、大仏像造営の勧進(責任者)になったということです。
この度、現代日本では定年を65歳まで延長されましたが、個人的には米国・英国のように、定年制などはなくすべきだと思います。奈良時代、8世紀の76歳が大仏建立事業を開始することと比較して、日本の65歳定年制度は恥ずかしくないかと思います。
また、余談ですが、バチカンのシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」の壁画制作をミケランジェロに発注されたのが1535年で、彼が60歳の時。そして、完成が1541年で、ミケランジェロが66歳の時でした。
ゲーテはこの壁画を見て、「この天井をみれば、われわれ人間がどれほどのことができるのかわかる」と驚嘆しています。当時としては驚異の88歳まで生きて、ローマで亡くなっています。お墓はローマではなく、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にあり、聖堂の正面入口から入ってすぐ右手に見える墓碑がミケランジェロの墓です。
<喜光寺の本堂>
東大寺の大仏殿の小型が、この喜光寺の本堂だと言われています。行基さんは、大仏殿のように巨大な建物は日本史上初めてだったので、まずは喜光寺に小型の建築で、大仏が入る空間を問題なく支えるかどうかの実験をしたのではないかと思います。
行基さんは、749年に大仏の完成を見ずして81歳で亡くなりましたが、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」ともいわれています。また行った数々の偉業から「文殊菩薩の化身」ともいわれています。
行基さんも、ミケランジェロも、あの当時としては、記録的な超高齢まで生きて亡くなっています。彼らには定年退職は無く、亡くなるまで周りからその才能を認められ、働くことを期待され、老いることなど眼中になく働いたからではないかと思います。
喜光寺 基本情報
- 住所:奈良県奈良市菅原町508-508
- TEL:0742-45-4630
- 公式サイト:喜光寺
5.いつもの余談です(蓮の花とは全く関係ありません)
国際鉄道標準ゲージ1,435ミリ。なぜ決まったかご存知ですか?
1,435mmの軌間について、蒸気機関車の発明者である英国のスチーブンソンが、近くのキリングワース炭坑のレールゲージをそのまま使ったそうです。この炭坑のレールゲージが決まった理由には轍が関係しています。
欧州・中近東・北アフリカ・西アジア・中央アジアなどの地域を支配した古代ローマ帝国のローマ文化の遺跡にて発見された轍間隔を測ると、ローマ石畳の道に残された馬車の轍は1,435ミリでした。
<ポンペイ遺跡の轍の跡>
この写真、イタリア・ナポリ郊外にある古代ローマの都市のポンペイ遺跡です。2,000年前の車道の舗装の石の上には、くっきりと馬車の轍の後が残っています。
その当時、ローマ帝国の領域は英国から現代の北アフリカ・中東地域まで広がっていました。
車輪の幅は、ローマ帝国内で統一されていたので、どこの轍も同じ幅なのです。現在の新幹線のレールの幅、1,435mmは古代ローマ帝国の馬車の車輪の幅なのです。
古代の車輪の幅と、新幹線のレールの幅が同じなのは、古代ローマ定めた馬車の車輪の幅が現代まで続いているということです。これはとても興味深い。
交差点には歩行者のための渡り石が設けられており、現代で云えば横断歩道として歩行者と馬車との衝突を防ぎました。
馬も大きな石を見たら、スピードを自動的に落としますよね。みなさん、車を運転しているときは、横断歩道の手前でスピードを落としましょう。
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ドルチェビータ
- 2003年より2011年までイタリア、2014年から2017年まで英国にいました。