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日本の戦争遺構巡ってみた!〜後編〜【知覧特攻隊記念館・ひめゆりの塔】

記事投稿日:2022/05/15最終更新日:2022/05/15

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戦争遺構 イメージ

こんにちは!フォトグラファーの久光佑弥です!

原付バイクで日本一周する傍ら、日本の戦争遺構を巡っていました。

本記事は後編となりますので、ぜひ前編も合わせてお読みください。

>>日本の戦争遺構を巡ってみた!〜前編〜【原爆ドーム・長崎平和記念公園】

目次

鹿児島県 知覧特攻平和記念館

知覧特攻平和記念館

鹿児島県南部に位置する知覧は、第二次世界大戦中に特攻隊が多く出撃した町として有名です。この知覧特攻平和記念館は、特攻によって散った兵士たちの遺品や遺書を展示している資料館なのです。

時は第二次世界大戦。第一次世界大戦から勝ち星が続いていた日本は、東南アジア諸国への進行を開始していました。しかしアメリカの反撃に合い、徐々に押されていき、1945年には沖縄や日本本土までが空襲にさらされるようになりました。

知覧特攻平和記念館

当時の大日本帝国は、沖縄を戦争の最前線と考えていました。沖縄がアメリカに奪われれば、沖縄を起点に日本本土への侵攻をされてしまうため、それだけは避けたいという状況だったそうです。

資源に劣る日本が、少ない戦力に精神力を上乗せして考案されたのが、「神風特別攻撃」。通称「特攻隊」でした。

特攻隊員となったのは、全国から集められた若干17〜20歳の若者たち。この攻撃は、200kg爆弾、500kg爆弾を積んだ飛行機で、片道650km約2時間半の飛行を経て、沖縄の敵の艦隊に体当たりを仕掛けるという作戦でした。

パイロットが必ず死亡する、決死の作戦。その人数は、1,036人。知覧からは最も多い439人が特攻により命を落としました。

知覧特攻平和記念館

知覧特攻隊記念館で見たものは、今でもずっと印象に残っています。

学校の体育館くらいの広さの館内。その壁一面に、特攻隊で命を落とした隊員たちの顔写真が、ズラっと並んでいたのです。全部で1,036枚。1,036人の顔写真。一枚一枚に名前と年齢も添えられていました。

17歳。18歳。20歳。26歳。ほとんどが僕よりも若い年齢でした。白黒写真だけど、笑っている顔から、真顔でキリッとした写真まで、それはフィクションでもなんでもない、75年前に実際に生きていた人たち。この写真を撮った後に、特攻により命を落とした人たちでした。

無数に並んだ顔写真の手前には、ショーケースが並び、その中には特攻隊員たちの遺書が展示されていました。

「お母さん。大元気で、でっかいやつを沈めます」

「散るべき時はきた。若桜。赤き血潮ぞ国を護らん」

「人生の総決算。何もいうことなし」

コピーではなく、本物の遺書。一言で書かれたものから、数十行に及ぶものまで、様々でした。特攻の出撃は前日に知らされるそうで、出撃を知らされてから書いた遺書は短く、出撃の数週間前に書かれた遺書は長文な傾向にあったようです。

自分を育ててくれた家族への感謝。そして、自分が特攻で散った後も、残された人々が平和に生きてくれることを願う。そんな内容がほとんどでした。

知覧特攻平和記念館。日本一周を終えた今でも、強烈に印象に残っている場所の一つです。興味のある方は、ぜひ一度訪れてみてください。

知覧特攻平和記念館

沖縄県 ひめゆりの塔(ひめゆり平和祈念資料館)

ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆり平和祈念資料館は、沖縄戦で看護要員として動員されたひめゆり学徒生の戦争体験を伝える資料館です。

時は1945年。熾烈を極める太平洋戦争において、沖縄は非常に重要な場所にありました。そのため日本政府は沖縄県民も総動員してアメリカから沖縄を守るように命令したのです。

そして1945年3月23日、米軍の沖縄上陸作戦が開始。戦艦から沖縄本島には激しい砲撃が晒され、米軍が上陸。地上戦となりました。

当時の米軍の兵力は約55万人。対して日本軍は約11万人でした。圧倒的な兵力差を前に、日本軍がとった作戦は持久戦。とにかく1日でも長く、アメリカ軍が日本本土に上陸するのを遅らせるために、約3ヶ月間も悲惨な地上戦を繰り広げたのです。

ひめゆり平和祈念資料館

そんな沖縄戦いの最中、沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第一高等女学校の生徒222人は那覇市の沖縄陸軍病院に配属され、負傷兵の看護や飯炊き、死体埋葬の業務にあたっていました。防空壕の中で負傷兵の手当てをしたり、武器を前線に送り届けたり。当時彼女たちは、安全な場所で作業に当たれると思っていましたが、蓋を開けてみると、戦場のど真ん中だったのです。

そして1945年6月18日。戦局の悪化に伴い、学生たちに突然の解散命令が下されました。学徒隊は解散して、自分の判断で行動せよ。という命令。戦場のど真ん中でそんな命令を受けることは、死の宣告に等しいものでした。

解散後は米軍の攻撃にさらされて多くの学生が命を落としました。

砲弾の飛び交う中で、防空壕を出ていく当てもない。体を引きずり逃げる人、海岸で波に飲まれる人、手榴弾を胸に当てて自決する人、砲弾に吹き飛ばされる人。行き場を失い父母を叫び死んでいく人。

そんな地獄のような戦いが90日も続き、結果として、240人いた生徒教師のうち、227名が命を落としたそうです。

ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆり平和祈念資料館を進んでいくと、学校の教室ほどもある、広い部屋にたどり着きました。そこでは壁一面に、沖縄戦で亡くなった227人の学生たちや教師の顔写真が並べられており、顔写真の下には、本名と年齢、どんな学生だったか、そして死因まで明記されていました。

  • バレーボールが得意だった
  • 歌が上手だった
  • 自分の意見をはっきり述べる人だった
  • 真面目で真の強い子だった

その一文一文から、写真の一人一人が、紛れもなく当時生きていた人たちであることを感じられました。

...そしてその下には、

  • 頸動脈に銃弾の破片を受けて即死
  • 糸満市で家族六人で自決
  • 被弾して即死
  • 重傷をおい豪の中で死亡
  • 地雷に触れて即死
  • 死因不明

夥しい数の死因、死因、死因。まだ二十歳にもならない若い子供たちが、凄惨な死を遂げたことが、細かく展示されていました。

ひめゆり平和祈念資料館

沖縄の海や景色は本当に綺麗で、ほんの75年前に、そんな悲しい戦いがあったなんて、忘れてしまうほど。だけどこれは紛れもなく、75年前にこの地で起こった出来事で、これから沖縄を旅するにあたって、そういう負の一面も忘れてはいけないと思いました。

ひめゆり平和祈念資料館

最後に

平和の塔

以上、日本一周をして印象に残った戦争遺構を前後編に分けて4つ紹介しました。

本記事を書いている時、ロシアとウクライナの戦争が、連日テレビのニュースを賑わせています。このようなご時世だからこそ、本記事を通して、日本の戦争はどうだったのかについて、考えるきっかけになれば幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

平和への願い

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