【山口県】幕末・高杉晋作が挙兵。坂本龍馬の書簡を残す。国宝の仏殿・功山寺

山口県下関市。七卿潜居の間(しちきょうせんのま)には三条実美らが滞在、坂本龍馬が三吉慎蔵に宛てた遺書ともされる書簡を残す古刹。そして何と言っても幕末の革命家・高杉晋作が伊藤博文らと共に挙兵した舞台、明治維新が始まったのはこの地からとも言われています。多くの英雄が奔走した地、功山寺を、高杉晋作の生涯と共にご紹介します。

目次

城下町「長府」に構える功山寺

功山寺総門
<国の登録文化財に指定されている功山寺総門>

本州の最も西に位置する山口県下関市は、海と緑に恵まれた海峡の町。JR下関駅からバスで20分ほど。城下町「長府」に、生い茂る木々に覆われてたたずんでいるのが功山寺総門です。総門は室町時代の建造物と考えられており、国の登録文化財に指定されています。

功山寺
<立ち並ぶ木々が現世との壁となり別世界のような静寂の空間>

総門をくぐると、クスやモミジが現世との壁となり、その中は静かな別世界。すっと息をのみ、気持ちが引き締まることでしょう。

功山寺山門
<歴史の舞台への入り口に相応しい重厚な山門>

木漏れ日の先には重厚な山門が見え隠れします。このお寺の格式と歴史への入口にふさわしい見事な構えです。二重屋根の山門は、この時代の禅宗様式を今に伝える貴重な文化財となっているのです。

功山寺本堂
<天蓋(てんがい)が美しい功山寺本堂>

功山寺は元応2年(1320年)に創建され、正慶2年(1333年)に、後醍醐天皇が皇室の繁栄を祈願する勅願寺としました。その後の元弘の乱で後醍醐天皇は鎌倉幕府を崩壊させると、自らが政治を行うの建武の新政をはじめます。この時の公家中心の政治にそむいて、京を追われることとなった足利尊氏はこの寺に立ち寄りました。尊氏はこの寺に深い信仰を持ち、この地域の小月村を寺領として寄進した記録も残っています。

功山寺仏殿
<鎌倉時代末期に建立された国宝となっている仏殿>

深い色合いでたたずむ仏殿は、山口県の寺社仏閣では3つしかない国宝の1つ。鎌倉時代末期に建立された仏殿は中国から伝えられた純粋な禅宗形式です。入母屋造り、檜皮葺きの屋根が美しい曲線を描いています。

幕末の革命家・高杉晋作の生涯

高杉晋作の像
<鐘楼(しょうろう)の脇で勇ましく馬を操る高杉晋作の像>

国宝の仏殿の先には、勇ましく馬を操る高杉晋作の像が構えています。

高杉晋作は、天保10年(1839年)に、ここ長州藩の上級武士の元に生まれます。少年時代に武士を土下座させたほどの大変な負けず嫌いでしたが、松下村塾での吉田松陰との出会いが、大きな転機を迎えることになります。吉田松陰の「身分を問わず、志高い者が立ち上がり、新しい時代をつくろう」という草莽崛起(そうもうくっき)の思想に深く感銘していくのです。

岸信介の書
<山口県出身の元内閣総理大臣 岸信介の書。安部元総理の祖父にあたる方>

晋作は24才の時、長州藩の代表として上海視察を経験しました。その上海で見たものは、アヘン戦争で敗れて西洋人に植民地のように支配され、使用人のような扱いを受ける清国人の姿でした。晋作は「このまま日本の開国が進めば同じ道をたどってしまう」と強い危機感を持ったのでした。

奇兵隊を結成・欧米から「魔王」と言われた男

功山寺名水
<高杉晋作も挙兵の成功を祈り愛飲したと記されている功山寺名水>

帰国後はますます攘夷に走ります。晋作の弟分であり後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文と共にイギリス公使館を焼き討ち。1864年には長州藩が外国船を砲撃。その反撃に歯が立たない藩は晋作に防衛を命じます。

そこで晋作が結成したのが「奇兵隊」でした。この奇兵隊は武士だけでなく、身分に関係なく志の高いものなら町民でも農民でも誰でもが入ることができるという、歴史に残る画期的な隊となったのです。

高杉晋作像
<鬼気迫る姿から欧米人から「魔王」と言われた男>

後に欧米の戦艦からの報復で長州藩は壊滅的な危機を目前に、そこで停戦交渉を命じられたのも高杉晋作でした。晋作の交渉は相手を圧倒、日本円で900億円も賠償金を毅然と拒否し、停戦に持ち込んだのです。欧米人を相手にひるむことのない、この時の晋作の姿は「魔王のようだった」とは有名な話です。

5人の公家が滞在した七卿の潜居の間

七卿潜居の間
<三条実美ら5人の公家が滞在した七卿潜居の間>

そしてここからは現在の功山寺方丈様のお話を交えてご紹介します。この日は京都大学名誉教授でもある、有福方丈様から直接お話しいただくことができました。

「ここが、晋作が挙兵を三条実美ら五卿が2か月滞在した七卿の潜居の間です。七卿潜居の間となっているのは、最初は京都から7人のお公家さんが来る予定だったからなんです。でも実際に来られたのは5人でした。」

五卿とは5人の公家のことです。1863年(文久3年)、薩摩藩、会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変により、尊王攘夷派のこの7人は京都を追放されたのが「七卿落ち」です。7人は長州へと落ち延びたのですが、実際にここにたどり着いたのが、明治維新後に太政大臣や内大臣などを歴任する三条実美ら五卿だったのです。

絵
<五人の公家に挙兵の挨拶をする甲冑をまとった高杉晋作>

「7人来る予定だったから、こうゆう名前になっているけど、実際は5人ですよ。その絵を見て下さい。5人でしょ。ここで挨拶をしているのが高杉晋作ですよ。」

東久世通禧の漢詩
<京都から追われた寂しさと不安を詠った東久世通禧の漢詩>

「今までの京都での公家としての生活と一変したわけですからね。その時の気持ちを東久世通禧が漢詩に残していますよ。」

『静かに住んでいると客も誰も来ない。困り果てた旅路というのは沈んでいく夕日のごとし、酒でも飲まねばやりきれない・・』

その五言律詩には、後に神奈川府知事や貴族院副議長などの要職を歴任することになる東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)が書いたものです。そこには、京都から追われた寂しさと不安、そして「やってられない」という悲観がにじみ出る言葉が残されていました。

庭園
<五卿や晋作も眺めたであろう潜居の間からの美しい庭園>

「それでもこの寺に公家がいたから晋作は挨拶に来たんだから、公家がいなかったらここには来てませんよ。ここで挙兵してなかったら何も起きてなかったかもしれない。明治維新もなかったかもしれない。ここが明治維新のスタートとなったんですよ。」

「高杉には命令ができて、勇気がある。それと時を見る才能があったのでしょう。それとこの挙兵は伊藤博文がいたから成功したのでしょう。伊藤が全部準備したからね。彼も大変な才能がありました。」

高杉晋作が挙兵。明治維新はじまりの地

高杉晋作像
<84人から3千人になり幕府側に勝利した功山寺挙兵>

過激な尊王攘夷に対して幕府からの長州征伐の勢いが強くなります。さらには長州藩の中も尊王攘夷を貫く高杉晋作ら正義派と、幕府側となった俗論派の対立が激化するのです。

誰もが幕府側の俗論派にはかなわないと尻込みする中、「一人でも戦う」と立ち上がったのが晋作でした。12月15日挙兵の日、功山寺に集まったのは弟分の伊藤博文が率いる力士隊を中心としたたったの84人でした。しかし晋作は志が高ければ人数は関係ない。これで十分。

時代を動かすことができると確信し、五卿にこう言いました。

「これより長州男児の腕前お目にかける!」

高杉晋作
<大政奉還を目前に、29才の激動の生涯を終えた高杉晋作>

晋作らはまず下関の萩藩新地開所を襲撃、しだいに隊に民衆が加わり、さらに長州の諸藩も加勢、その数は3千人にもなりました。この勢いで幕府に従う俗論派に勝利するのです。この勢いで幕府と戦うことを決意。この頃は反幕に転換していた西郷隆盛率いる薩摩藩と、坂本龍馬の仲介もあり、薩長同盟を結成。最新の武器と共に幕府を敗北に追い込むのです。

しかし、そのころ晋作には当時は不治の病だった結核に侵されていました。大政奉還の半年前、時代の幕開けの直前に晋作はその激動の生涯を閉じたのです。

坂本龍馬の遺書ともされる書簡

案内板
<ここ下関市と深い関わりを持っていた坂本龍馬>

この薩長同盟を仲介したのが明治維新の英雄、坂本龍馬です。晋作と龍馬の関係は深く、薩長同盟を結成する際など度々会談をし、龍馬は晋作のことを「天下の人物」と称したほどでした。晋作は龍馬にピストルを送り、これがのちの池田屋事件で龍馬の命を守ったのです。

書簡
<坂本竜馬が妻の保護を三吉慎蔵に託した書簡>

そしてもう一人、この池田屋事件で龍馬を守った男が長州藩の槍の達人、三吉慎蔵です。慎蔵はその槍で応戦、絶体絶命の危機から二人は脱したのです。これを機に慎蔵に絶大な信頼を持った龍馬は、遺言を託します。それは自分の身に何かあった時には妻のおりょうを保護し、龍馬の実家に送り届けてほしいという内容でした。その書簡がこれです。慎蔵は遺言通りにおりょうを保護しました。

そして、維新後は藩の要職を歴任し、71才の生涯を終え、ここ功山寺に永眠しているのです。

浩宮徳仁親王殿下
<昭和55年 浩宮徳仁親王殿下(当時)御成り>

書院から和室へ行くと、そこには徳仁天皇陛下が皇太子時に訪れた写真を始め、三笠宮両殿下、常陸宮華子様、小泉純一郎元総理の姿が並び、さらに安倍晋三元総理の四文字書が飾られていました。こうして現在に至っても皇室の方々や、国のリーダーが訪れる名刹なのです。心清らかにご参拝下さい。

功山寺(こうざんじ)

  • 住所:下関市長府川端1丁目2-3
  • 書院見学:9:00~17:00
  • 書院入場料:大学生以上300円、中高生100円、小学生以下は無料
  • HP:功山寺

まとめ

木々で覆われた静かな参道から重厚な山門へ、仏殿は国宝に指定されている名刹。足利尊氏かから寺領を寄進され、三条実美ら公家が滞在。そして高杉晋作や伊藤博文ら幕末の志士たちが奔走した明治維新がはじまった地。坂本龍馬の書簡も残す功山寺。思想や立場に違いはあれど、この国を思い、命がけで生きた英雄たちの魂を感じることができるお寺です。ぜひお出かけ下さい。

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KOJI SAITO

東南アジアの子ども達を支援しているNGO代表。活動の合間に聖地を巡り、現地の人々との触れ合いから直接聞いた情報をお伝えしています。国内では会社を経営し、出張で47都道府県を制覇。

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