【アルジェリアその①】「地の果て」「魔窟」と描かれた"カスバ"の今

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北西アフリカの一角、アルジェリアで最も新しい世界遺産は、1992年に登録された首都アルジェにある「カスバ」です。

アルジェのカスバと言えば、「ここは地の果て...」で始まる戦後の歌謡曲「カスバの女」の一節や、戦前のフランスの名作映画「望郷(原題:ペペ・ル・モコ)」を思い浮かべる方も多いことでしょう。

「地の果て」「魔窟」のように描かれたカスバ...。

無事に駆け抜けられたのか、アルジェのカスバの今をお伝えします。

目次

アルジェのカスバの歴史は、北西アフリカ発展の証し

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(アルジェのカスバ入口)

2020年現在、アルジェリアにはユネスコの世界遺産に文化分野で6件、複合分野で1件が登録されています(自然分野での登録はありません)。合計7件の登録があるなかで、最も新しい世界遺産が1992年に登録された「アルジェのカスバ」で、カスバの歴史は北西アフリカの発展の証しです。カスバはアラビア語で「要塞化した都市」を意味しますが、通常は北西アフリカにある城壁で囲まれた特定の城塞都市を指します。

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(丘の上から、丘の下へ)

中東に数多くの「旧市街」と称される地区があります。

アルジェのカスバも数ある旧市街のひとつですが、曲がりくねった細い路地の左右に白い壁がそびえ、天を覆わんばかり出窓が作られる小高い丘は、紛れもなくアルジェのカスバだけの風景です。かつては「地の果て」「魔窟」のイメージもあったカスバですが、取り囲んでいた城塞と、日没には閉じられていた門の多くは取り払われ、アルジェの人びとは時間を問わず自由な往来ができるようになりました。

白い壁と長く延びた影、目の前に細く延びる路地、澄み切った青空の下の街並み...。

カスバに足を踏み入れて、港に向かって降りて行くだけで、自身が名作映画に出演しているかのように錯覚します。

10世紀からの歴史を有する世界遺産のカスバ

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(ぺぺ・ル・モコが目指した港)

アルジェはもともと天然の良港として知られていましたが、カスバは紀元10世紀から始まり、16世紀初頭にはスペインが地中海の要衝であった、アルジェの小高い丘に本格的な要塞を建設しました。その後1592年頃にオスマン・トルコの海賊で「赤ひげ」の通称で知られる、ハイール・エディンがスペインを撃退し、略奪や身代金で城塞の占領に成功します。

オスマン・トルコの軍事力と経済力に支えられたアルジェは、港湾都市として帝国内外に名を馳せ、カスバは単なる要塞ではなく、支配者の大邸宅やモスク(イスラム教礼拝所)が競い合って造られました。

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狭い路地には人びとの姿が)

アルジェのカスバは、1830年にフランスの支配下になったことで、最大の転機が訪れます。フランスの手によって城塞都市から、ヨーロッパ的な近代都市への改造が公然となされ、歴史的なモスクがキリスト教の教会へと転用される憂き目を見ました。

フランス支配下においてカスバは荒廃の象徴として扱われ、多くの文学作品や映画の舞台になり、名作映画「望郷(原題:ペペ・ル・モコ)」でフランスの名優ジャン・ギャバン演じる、フランス本国から逃れ着いた犯罪者であるペペ・ル・モコが、愛する女性との約束を果たすため、カスバを駆け抜けたのがこの頃です。

独立後のアルジェリア混乱期には、カスバ内部への立ち入りが厳しく制限されますが、世界遺産に登録後は治安も落ち着き、外国人は訪問方法など制限があるものの、観光が再開されています。

「地の果て」「魔窟」と描かれたカスバの内部へ~上カスバ~

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(頭上の緑は酷暑をしのぐ工夫)

それでは実際に丘の上でバスを降りて、丘の下にある港の近くまで歩いてみましょう。

カスバへは丘の上の、かつては門があった細い路地から、内部に入ります。入口の目印になる公園は近年整備された小さなものですが、オスマン・トルコ時代から現在までのカスバの歴史を描いた、プレートがはめ込まれています。直ぐに家々の玄関にある大きな鉄製の門扉と、壁に取り付けられた蛇口に目がいきます。蛇口の周囲を含めて地元では「泉」と呼びますが、天然水が湧き出しているわけではなく、カスバ内の篤志家が誰でも使用可能な水道を整備したのです。「泉」の蛇口をひねると、篤志家の思いが現在にも通じ、勢いよく水が流れだしました。

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(篤志家が造った整備した「泉」)

並び立つ建物の切れ目から、アルジェの港が見下ろせます。時代こそ違えども、映画「望郷」でペペ・ル・モコが駆け抜けた港と、同じ方向を目指します。何度もカスバに来ていますが、やはり登りはきついからか、必ず上カスバから下カスバ、そしてアルジェ港へと下っていく、いつものルートです。なだらかな坂を持つ細い路地が下へと延びていましたが、自動車がやっと擦れ違える道幅の道路に突き当たりました。今まで細い路地ばかりを縫うように歩いていたので、自動車が走る姿を見ただけでも新鮮に感じます。

狭い道路ですがカスバを上カスバと下カスバを分かつ、重要な幹線道路です。

カスバには人びとの暮らしの全てがある~下カスバ~

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(2度転用された「ケチャワ・モスク」

下カスバに入ると、小学校の脇を歩いていたらしく、授業が終わった子どもたちが大勢集まって来ました。子どもたちは私たちに律義に挨拶をして、自らの家路へと足早に去って行きました。細い路地ですが子どもたちにとっては、まっすぐな大通りに見えているのかも知れません。元気な子供たちの挨拶が「地の果て」「魔窟」のイメージを払拭させてくれました。

カスバには人びとの暮らしの全てがあり、住居だけではなく、商店や仕事場、学校、モスクはもちろんのこと、ハマム(公共浴場)まであります。

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(終わりを知らせる大通りと広場)

路地の傾斜が緩くなり、リズミカルな音色が、どこからともなく聞こえてきました。第二次世界大戦後に、カスバに住み始めた金属職人たちが、銅製の祭礼用大皿に細かな装飾加工を施していたのが、その音色の正体でした。細やかな金属細工は本来、ユダヤ教徒たちがお手の物でしたが、1948年のイスラエル建国前後に多くのユダヤ教徒たちがカスバを去ったため、現在ではアラブ人たちが技術を引き継いでいます。

アラブの大男たちが、細やかな作業に没頭している姿はユニークですが、その音色は残念ながらカスバの終わりが近いことを教えてくれます。

差し込む光とモスク、広場の先には~アルジェ港~

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(ペペ・ル・モコも目指したアルジェ港)

さらに歩みを進め、路地が完全に平坦になったとき、突然光が差し込んで来ました。その光は細い路地から、影の開放を告げる光でした。カスバを曲がりくねった細い路地を白い壁と左右を覆う出窓が消え、フランス支配下にはキリスト教の教会、さらに独立後にはモスクへと再び転用された17世紀建造の「ケチャワ・モスク」が出迎えてくれると、駆け抜抜けることはありませんでしたが、アルジェのカスバとはお別れです。

人びとが行き交うアルジェ港に面したマルチール広場に、カスバの入口で降りたバスが先回りをして待っていました。ペペ・ル・モコには申し訳ないのですが、私たちの約束はきちんと守られていたのでした。

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次回その②は、ノーベル賞作家カミュが「神々が住む」と愛したティパサ遺跡をたどります。。。

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