【アルジェリアその③】「美しい」と名付けられた古代ローマ遺跡と、皇帝の名前の都市

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北西アフリカの一角、アルジェリア東部にその規模や状態の良さから、アラブ人たちが「美しい」と名付けられた、古代ローマの都市遺跡があります。海岸線から内陸に40kmも離れ、標高900mの高原に造られた都市遺跡は、1982年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。また観光の拠点となる古代ローマ皇帝の名前を冠した都市は、深く切り立った渓谷の架かる橋の美しさで有名です。

その〝美しさ"を確かめるため、どちらも訪ねてみました。

>>>【アルジェリアその②】コロナ禍で注目を集める、作家カミュが愛した遺跡を訪ねて の記事はこちら

目次

古代ローマ皇帝の名前が付けられた渓谷の都市

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(コンスタンティーヌの展望台にある「凱旋門」)

アラビア語で「美しい」を意味する名前が付けられた、アルジェリア東部にある「ジェミラ遺跡」。その美しさを確かめるため、今回は人口50万人を擁するアルジェリア第3の都市「コンスタンティーヌ」から向かいます。出発地であるコンスタンティーヌは古代ローマ皇帝で「大帝」と称される、コンスタンティヌス1世の名前を戴いた都市です。アルジェリア独立後にフランス風の地名、ヨーロッパ風の地名は、アラブの地名に改名を迫られましたが、コンスタンティーヌの名は今も残されたままです。

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(旧市街と展望台を結ぶ「シディ・ムシッド橋」)

深く切れ込んだ断崖絶壁の渓谷に街が広がるコンスタンティーヌは、紀元前2世紀のカルタゴの手によって造られた都市国家が起源で、北西アフリカの住民であるベルベル人のヌミディア王国の首都とされ「キルタ」と呼ばれていました。ローマが生んだ最大の英雄カエサル(紀元前100年~44年)がヌミディア王国のユバ1世を滅ぼし、ヌミディア属州の州都が置かれました。

新旧市街と結ぶ美しい橋とエレベータ橋

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コンスタンティーヌのシンボルである橋)

その後、キリスト教を公認し、ローマ帝国を再統一した「大帝」コンスタンティヌス1世(紀元272年~337年)の治世に街が新しく造られ、紀元313年にコンスタンティーヌへと改名をします。7世紀にアラブ人がイスラム教と共に到来、16世紀にはオスマントルコよっては渓谷を中心に街が広がり、イスラム教の礼拝所や神学校が造られ、難攻不落の軍事都市、国際都市として繁栄しました。現在の市内に古代ローマの遺構はなく、コンスタンティヌス1世の石像が鉄道駅前に残るのみです。

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(旧市街と鉄道駅を結ぶ「ペレゴ人道橋」)

渓谷によって離れた新旧市街を結ぶため、何本かの橋が架けられています。そのなかでもカスバがある旧市街と、凱旋門がある新市街の展望台を結ぶ「シディ・ムシッド橋」と、同じく旧市街と新市街の鉄道駅を結ぶエレベータ付きの歩行者専用橋「メラ・スレイマン橋(ペレゴ人道橋)」が知られています。シディ・ムシッド橋はフランス支配下の1912年に架けられた橋で、地元の人びとからはコンスタンティーヌを代表する美しい橋と称され、高さ175m、長さ164mの鋼鉄製の橋が架けられています。

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(橋の奥には旧市街へのエレベータが設置)

ペレゴ人道橋は1925年にコンスタンティーヌ鉄道駅と旧市街を結ぶ目的で、渓谷から100mの高さに架けられた長さ125m、幅2.5の橋です。人専用の吊り橋なので揺れることもありますが、段差がある旧市街側には当時の最先端技術であったエレベータがついており、有料で乗ることができます。

アラブ人が「美しい」と名付けた古代ローマの都市遺跡

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(カラカラ帝が建造した「凱旋門」)

国際都市コンスタンティーヌから西に110km、首都アルジェから東に250km、地中海の海岸線から南へ内陸に40km、標高900mの山がちで傾斜がある高原に、ローマ人たちはベルベル人たちを抑制する目的で、紀元前46年にローマの属州として「クイクル」が誕生します。ローマの植民都市は一般的には平地に造られることが一般的ですが、その中でもクイクルは街全体が傾斜を有する珍しい都市です。

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(クイクルの街を南北に貫く「カルド」)

街全体に「デクマヌス(東西に貫く通り)」が無く、「カルド(南北に貫く通り)」のみが走る街は、周囲の山並みと合わせてとても印象的です。紀元98年にローマ帝国の皇帝で、五賢帝と称されるネルファ帝によって植民都市に昇格しました。紀元前後から紀元1世紀に掛けて、ネルファ帝によってクイクルは「フォルム」と呼ばれる公共広場や、ローマの三神であるジュピター(ゼウス)=天空神、ジュノー(ユノー)=結婚・出産を司る女神、ミネルヴァ=技芸を司る神を祀った「カピトリウム神殿」が紀元前後から造られました。

「美しい遺跡」の「美しいモザイク」を収蔵する博物館

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(丘の斜面と利用した「ローマ劇場」)

紀元2世紀から3世紀に掛けて、セプティミウス・セウェルス帝からの庇護を受けて「セプティミウス・セウェルス神殿」が216年に建造され、さらにその息子であるカラカラ帝も街の栄誉を讃えて「カラカラ帝の凱旋門」を229年に、3千人を収容したローマ劇場も2世紀に建造されました。最盛期には人口1万5千人を擁し、初期キリスト教の教会や洗礼堂が造られますが、5世紀にヨーロッパのイベリア半島から襲来してきた、ゲルマン系ヴァンダル人の攻撃を受けて、街は廃墟になりました。

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(フォルムから望む「セプティミウス・セウェルス神殿」)

7世紀にイスラム教と共に到来したアラブ人が廃墟を見て、その美しさから彼らが持ち込んだアラビア語で「美しい」を意味する「ジェミラ」と名付けられました。ジェミラでは遺跡もさることながら、遺跡の入口にある「モザイク博物館」も欠かすことができません。アルジェリアに古代ローマ時代のモザイクを収蔵する博物館があることはあまり知られていませんが、館内には高さ8mに及ぶ、壁一面のモザイクが収蔵されているなど、世界的にも評価も高く必見です。

残念ながら、館内は写真撮影が厳禁になっていますが、長い時間を経て精巧に作られた、モザイクは見ているだけでため息が出るほどです。モザイクは狩猟や農作業の様子が活き活きと描かれ、遠く離れたローマの栄華を支えた「ローマの穀倉」の豊かな暮らしを今に伝えてくれます。

改名されなかった都市と、残された遺跡の残照

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(遺跡入口にある「モザイク美術館」の外壁)

古代ローマ皇帝の名前が付けられた都市や、地中海から40kmも離れた高原に建造された遺跡とモザイクは、地中海に面した北西アフリカとヨーロッパが互いに影響を与えながら、それぞれが発展を遂げたことを伝えてくれます。アルジェリアは1962年の独立後にフランス文化、ヨーロッパ文化を徹底的に排除しアラブ化、イスラム化を強力に推し進めます。しかしそれは人びとに対立を引き起こし、さらなる混乱を招いた上、国際社会からも孤立を深めました。改名されなかった都市に架かる橋と、破壊されなかった遺跡やモザイクは美しく、アルジェリアの大地に確かにフランスやヨーロッパの残照を映してくれました。

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