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ゴッホの描いた風景が残るオランダの村「ヌエネン」【前編】
フィンセント・ファン・ゴッホは30歳から2年間ほど、オランダ南部にあるヌエネンで暮らしました。当時のヌエネンは主な産業が機織りの貧しい村で、ゴッホは機織り職人や農民の姿を描いています。ゴッホが描いたヌエネンの風景をご紹介します。
目次
- ゴッホの暮らした風景をたどる
- 1. ヌエネンの牧師館 Pastorie
- 2. 聖堂番の家 Kostershuisje
- 3. ファン・ゴッホ教会 Van Goghkerkje
- 4. ヌーン・ヴィッレ Nune Ville
ゴッホの暮らした風景をたどる
オランダ南部の工業都市アイントホーフェンから東へ約7kmのヌエネンは、フィンセント・ファン・ゴッホが1883年12月から1885年11月まで暮らした村です。機織り職人や農民が多く暮らす貧しいヌエネンの村には、ゴッホの父親が牧師として赴任していました。
ゴッホが両親とともに暮らした家や、スケッチに出かけた水車など、ヌエネンにはゴッホゆかりのスポットが数多く残されています。ゴッホの暮らしや、絵画制作の様子を偲びながら、カンヴァスに描かれた風景をご紹介します。
ヌエネンへのアクセスは、アイントホーフェン中央駅から「ヌエネン・オースト (Neuenen Oost)」 行きのバス6系統で16分ほどです。上の地図の右下にあるバス停「ヌエネン・セントラム (Neuenen Centrum)」で下車し、そこから徒歩で散策できます。
1. エネンの牧師館 Pastorie
<上:『ヌエネンの牧師館』1885年 ゴッホ美術館蔵/下:現在のヌエネンに残る牧師館 Photo: Rosemoon CC BY-SA 4.0>
ヌエネンのベルグ通り26番地 (Berg 26) には、ゴッホが両親と暮らした「牧師館 (Pastorie)」が残されています。ゴッホの描いた牧師館と比べてみると、その外観はほぼ当時のままで、裏手にはゴッホがアトリエとして使っていた洗濯小屋も保存されています。
1883年12月、両親の元へ帰ってきた30歳のゴッホは、身も心も疲れ果てていました。16歳で働きはじめて以来、画商や学校、書店での仕事を次々に失い、父親のように聖職者になろうという夢も打ち砕かれ、思いを寄せた女性に求婚しては失恋し、ついには身を粉にして貧しい人々を救おうとするあまり、自らが貧困と病気に苦しめられていたのです。
両親と話をするたびに口論になるゴッホは、多くの時間を洗濯小屋で過ごしました。父親がゴッホに、アトリエとして使うことを許した場所です。このアトリエが立つ中庭の風景を、ゴッホは何度も描いています(下写真)。
<『ヌエネンの牧師館の庭』1884年 フローニンゲン美術館蔵(2020年3月30日に盗難)>
30歳を過ぎても定職を持たないゴッホの行く末を両親は憂えていました。ゴッホは弟テオへの手紙のなかで、家族から「毛並みの悪い犬」として扱われていると孤独を訴えています。
誰にも分かってもらえない悲しみを抱えながらもゴッホは描くことをやめませんでした。それどころか制作は白熱し、このヌエネンの村で生涯の全作品の4分の1ともいわれる数の素描と油絵を描きあげています。
私はヌエネンを訪れた際、ゴッホが実際に暮らした牧師館を目にしてなにか切ない気持ちになりました。脇にある小道は洗濯小屋に続いています。その小さな場所でひとり必死にカンヴァスに向かっていたゴッホを想うと、胸がいっぱいになりました。
2. 聖堂番の家 Kostershuisje
労働者の生活を描くために画家になったゴッホは、ヌエネンに到着するとまずは機織り職人を描きはじめました。近所の工房を訪ねては、織機に向かい黙々と働く職人を描きました。
ゴッホはこれらの作品を画商であるテオに定期的に送っています。テオが送ってくれるお金は仕送りではなく、自らが画業で得た収入であると周囲に示したかったのです。ただ実際には、明るい印象派の作品に関心を寄せていたテオにとって暗い色調のゴッホの絵画を売り出すことは難しかったようです。
<現在のヌエネンに残る「聖堂番の家」 Photo: Wammes Waggel CC BY-SA 3.0>
牧師館の少し北には小さな広場があり、「聖堂番の家 (Kostershuisje)」が立っています。1763年建造の歴史建造物で、かつては機織り職人の家と工房として使われていました。ゴッホが絵を描くためによく通っていた工房です。絵画の道具を持って歩くゴッホの姿を想像しながら、同じ道のりを歩いてみました。
ヌエネンの村には多くの機織工房がありましたが、現在ではこの1軒を残すのみとなりました。昔ながらの寄棟造で、茅葺き屋根や赤レンガ、緑の鎧戸が印象的です。後に聖堂番が暮らしたことから「聖堂番の家」と呼ばれるようになりました。
広場にはゴッホの没後40年の記念碑があり、すぐそばには樹齢350年を超える西洋ボダイジュが立っています。「聖堂番の家」を見ようと広場まで行ったものの、その見事な樹の方に見とれてしまいました。森のように枝を広げる老樹にもゴッホの記憶が刻まれています。
3.ファン・ゴッホ教会 Van Goghkerkje
<左:『ヌエネンのカルバン派教会を後にする群衆』1884-1885年 ゴッホ美術館蔵/右:現在のファン・ゴッホ教会 Photo: Wouter Hagens CC BY-SA 3.0>
「聖堂番の家」からさらに北へ歩いていくと、しだいに緑が豊かになりパーペンフォールト通りの木立の中に「ファン・ゴッホ教会 (Van Goghkerkje)」が現れます。小さな塔をもつ八角形の聖堂は、まるで別世界に佇んでいるようです。
ゴッホはこの教会の絵を足を負傷して礼拝に出かけられなくなった母親のために描きました。1884年1月に汽車から降りようとして転んだ母親が、大腿骨を折る大怪我を負ったのです。
半年もの間、ゴッホはほとんど付ききりで母親を看護しました。かつて伝道師だった頃、ベルギーの炭坑夫たちに親身になって尽くした記憶がよみがえります。この時ばかりは父親もゴッホの献身ぶりを賞賛しました。
「私は絵の中で音楽のように何か心慰めるものを表現したい」と、ゴッホはテオに語っています。母のために教会を描くゴッホは、深い愛を持つ人でした。
私が木立の中を歩いていると、枝葉がざわめいて教会のカリヨンが美しい音楽を奏でました。私にとってはヌエネンの中で最も心に残っている場所です。
4. ヌーン・ヴィッレ Nune Ville
1884年の春、ゴッホは母親の看護を手伝ってくれた隣人のマルホット・ベーヘマンと恋仲になりました。ゴッホは12歳年上のマルホットとの結婚を真剣に考えていたものの、両親やマルホットの家族に反対されてしまいます。
ゴッホと結婚できないことを悲観したマルホットは、毒を飲んで自殺を図りました。この自殺未遂事件は村のスキャンダルとなり、ゴッホとマルホットの恋に終止符が打たれます。事件によって両親や村人たちとの溝が深まったゴッホは、いよいよ孤独になりました。
<ゴッホの恋人マルホットが暮らした家 Photo: Wammes Waggel CC BY-SA 3.0>
牧師館の隣には、マルホットが家族と暮らした家が残っています。1874年に設計された18世紀様式の端正な邸宅で、現在は「ヌーン・ヴィッレ (Nune Ville)」として毎週土曜日に内部が公開されています。
ヌーン・ヴィッレにはマルホットが暮らしていた当時の調度品が並び、サロンにはゴッホの画家仲間の作品が飾られています。私がヌエネンに行ったのは土曜日ではなかったため残念ながら内部を見学できなかったのですが、建物内には第二次世界大戦中にユダヤ人の少年が身を隠した部屋もあるそうです。
さらに毎月第1土曜日には牧師館にあるゴッホのアトリエの見学も申し込めるそうで、次回はぜひ見学ツアーに参加してみようと思います。
ヌーン・ヴィッレ Nune Ville
- 所在地: Nune Ville, Berg 24, 5671 CC, Nuenen
- 営業時間:土曜日13:00-16:00(要予約)/ 12月24日・12月31日休館
- ツアー料金:大人5ユーロ, ゴッホのアトリエの見学は2.50ユーロ追加
- email:jacqueline@salonnuneville
- 公式サイト:Nune Ville
※施設の詳細やアクセス方法など掲載内容は2023年4月時点のものです。
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Kayo Temel
- オランダ在住。アムステルダムの美術アカデミーで絵画を学び、イラストレーターとして活動中。20年の在蘭経験を活かして、オランダを満喫するためのローカルな情報をお届けします。