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【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる

記事投稿日:2021/11/03最終更新日:2021/11/03

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古代歴史にはまだまだ謎が多く、毎日新しい発見があると言っても過言ではないようです。

その中でも、天智天皇と中臣一族の関係や、聖徳太子や渡来人の影響などはロマンが尽きません。天智天皇と中臣鎌足といえば『大化の改新』。『大化の改新』とは、大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(のち天智天皇)と中臣鎌足が中心となって行った、蘇我氏を代表とする豪族打倒に始まる一連の政治改革のことを指します。その天智天皇の御陵が、京都山科の「旧東海道沿い」にあります。近辺には中臣一族の遺跡や、小野や日野の一族が住んでいた場所、花山天皇ゆかりの場所などがあり、一帯が歴史ロマンに満ち溢れていることをご存知でしょうか?

今回は、そんな『京の歴史ロマン』を、歌と一緒にご紹介したく思います。

目次

天智天皇 山科陵

昨今、天皇の御陵をめぐるのが静かなブームとなっているようです。そんな中でもこの「天智天皇 山科陵」は京都で一番古いものとされ、特に人気があります。

第38代天皇である天智天皇の御陵は、考古学的には「御廟野古墳」といいます。上円下方墳で上円部は、截頭八角錐(せっとうはっかくすい)という形です。この古墳は、天皇陵としては珍しく実際に立ち入り調査を行い、確実に天智天皇陵であるという証明がされています。聖徳太子の死後に大和朝廷で力を持った「蘇我氏」を中心とした豪族の政治に中臣鎌足と共に終止符を打った「大化の改新」。その立役者である「中大兄皇子」の後の名が「天智天皇」です。教科書にも出てきますね。671年12月3日大津宮で崩御され、「壬申の乱」の後699年に山陵修営官が任命されました。

天智天皇は歌人とも知られ、『小倉百人一首』の第一首が、天智天皇の歌です。

「秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ」

『万葉集』には額田王が天智天皇が亡くなったときに詠まれた歌が掲載されています。

「やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は去き別れなむ」

そんな天智天皇が眠る山科陵では、近隣に住む人の憩いの場として散歩道になっています。

旧東海道沿いにあり、三条通に面した深い森の中を通り過ぎると参道入り口が見えてきます。高貴な人が眠る参道らしい緑葉の中を歩くと、ところどころ光が差してきて、鳥や虫の鳴き声が聞こえます。管理事務所の横にある手水所で手を洗い清め天智天皇の御陵に手を合わせると、森に囲まれた白沙の中に御陵が見え、なんとも神聖な気分になります。

天智天皇陵参道
<天智天皇陵参道>

天智天皇陵
<天智天皇陵>

天智天皇は日本で初めて時計を設置した人でもあります。

漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、時刻に合わせ鐘や太鼓をならし時間を知らせる報時制度を導入し、漏刻を設置した日である6月10日を「時の記念日」として制定されました。そのこともあり、昭和13年には御陵入り口に「日時計」が設置されました。天智天皇を御祭神として祀る『近江神宮』では、実際に水時計を見ることができます。

天智天皇陵 日時計
<天智天皇陵 日時計>

天智天皇陵の横の細道を行くと、琵琶湖疏水に通じます。

地元の人にとっては散歩道としてだけでなく、四季折々の草花が見られたり、野鳥や猿、猪だけでなく由緒正しき寺社仏閣があり、歴史を深く感じることができる大切な場所です。

琵琶湖疏水周辺については以下の記事をご覧ください。

>>【京のパワースポット】自然パワーみなぎる琵琶湖疎水周辺をお散歩

天智天皇 山科陵

  • 所在地:京都府京都市山科区御陵上御廟野町
  • 電話: 075-541-2331
  • アクセス:地下鉄東西線御陵駅から徒歩2分で参道入口、徒歩10分で御陵

中臣遺跡

中臣一族は、天児屋命(アメノコヤネ)を祖とし、忌部氏とともに神事や祭祀をつかさどった中央豪族として知られます。現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としており、この地域には古代からの中臣遺跡があちこちにみられます。

物部氏や天智天皇とともに「蘇我氏」と対立し、645年「大化の改新」で活躍した中臣鎌足。669年の臨終の際に、『藤原』という姓が与えられ以後、子孫は『藤原』を名乗ることになりました。

飛鳥時代(推古天皇22年)に生まれた鎌足。『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれています。そのため、死後、藤原鎌足が祀られている談山神社(奈良)では鎌を咥えた白キツネのお守りを授かることができます。

当時から交通の要衝とされていた山科には「陶原の館(すえはらのやかた)」を建て、山階精舎(やましなのしょうじゃ)と呼ばれるお堂が作られました。釈迦像が安置され「山階寺」と呼ばれるようになりましたが、ここが後に移転して『興福寺』(奈良)となりました。その石碑が、京都薬大の一角にあります。

中臣 山階寺跡
<中臣 山階寺跡>

また、山科川と旧安祥寺川が交わる場所から北方、栗栖野丘陵一帯の真ん中を新十条通が横断している地域の発掘調査も続けられています。このエリアには、稲荷神、中臣氏祖天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る『中臣神社(二之宮)』がある中臣公園があります。

中臣神社 中臣遺跡公園
<中臣神社 中臣遺跡公園>

『中臣遺跡公園』では、旧石器時代の遺物や竪穴式住居跡が発掘されました。

列子墓
<列子墓 中臣遺跡>

中臣遺跡 かまど遺跡
<中臣遺跡 かまど遺跡>

京都市立勧修小学校の敷地内には、「中臣遺跡」と書かれた石碑が建っており、その横には征夷大将軍だった「坂上田村麻呂」の墓があります。

中臣遺跡 石碑
<中臣遺跡 石碑>

坂上田村麻呂の墓
<坂上田村麻呂の墓>

田村麻呂が亡くなったのを悲しんだ嵯峨天皇は、遺骸に甲冑を着せ、弓矢などを持たせて武装し立った姿で葬ったと言われています。死してなお、平安京を守ってくれているようです。

『中臣十三塚古墳群』では、「折上神社」境内の「稲荷塚古墳」(円墳)と、「田村の森」西方にある「宮道古墳」(円墳)の2つ、そして田村麻呂の墓や花山稲荷の円墳も挙げられています。宮道古墳の前には、勧修寺流藤原氏の祖・高藤(900年没)の妻で、醍醐天皇の生母胤子(たねこ)を生んだ列子の墓も見られます。「折上神社」は「伏見稲荷大社奥宮」「栗栖野稲荷」としても知られ、境内には「稲荷塚古墳」があります。

折上神社 古墳
<折上神社 古墳>

「折上神社」に触れた記事もありますので、よかったらこちらの記事(後半)をご参照ください。

>>【Covid-19 (Corona) Experience in NY & Japan】 Jan-May 2020

中臣遺跡公園

所在地:京都府京都市山科区勧修寺東栗栖野町35-6

花山稲荷と元慶寺

モルガンお雪さんが参っていた玉の輿に乗れると有名な「折上神社」から真っすぐ行くと「花山稲荷神社」があり、大石良雄が寄進した鳥居や良雄断食石、血判石、本殿背後に「花山神社古墳」(円墳)などが見られます。

花山稲荷神社
<花山稲荷神社>

「花山稲荷神社」の前の道をいくと、花山天皇とゆかりがある「元慶寺」が出てきます。

元慶寺入り口
<元慶寺 入り口>

元慶寺は、868年に桓武天皇の孫である「僧正遍照」が、この花山の地に「華山寺」として創建した、西国三十三所観音霊場の番外札所です。天台宗の寺院で、西国三十三所巡りを復活させた第65代「花山天皇」が藤原親子にだまされて出家した場所でもあります。花山天皇は、生後10ヶ月で皇太子になり、ご即位したのは17歳の若さ。寵愛していた女御が亡くなると、藤原兼家が出家を促します。それを聞いた安倍晴明は、御所を出る夜に式神に指示を与え止めようとしますが、間に合いませんでした。

元慶寺には、六歌仙の1人である僧正遍照の『百人一首』の歌碑があります。

「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」

また、素性法師の歌碑もあります。

「今こむと言ひし許(ばかり)に長月の ありあけの月を待ちいでつる哉」

元慶寺歌碑
<元慶寺 歌碑>

元慶寺 上人の墓
<元慶寺 上人の墓>

竜宮造りの鐘楼門に収められている三代目の梵鐘には、菅原道真が勅命で元慶寺を詠んだ漢詩が刻まれています。

元慶寺

  • 所在地:京都府京都市山科区北花山河原町13
  • 拝観時間:8:00~17:00
  • 交通アクセス:地下鉄東西線「御陵」より徒歩20分

小野一族と聖徳太子

聖徳太子への信仰が厚かった親鸞聖人にちなみ、聖徳太子立像を安置されているのが、佛光寺です。毎月22日の聖徳太子忌日や、4月2日の春法要の際など特別にご開帳されています。越後流罪後、建暦2年(1212)に京都に戻った親鸞聖人が、山科の地に結んだ草庵をはじまりとする佛光寺ですが、いまは移転されています。

山科にも「小野」という場所に、小野一族ゆかりの「随心院」というお寺があります。

六歌仙の一人である「小野小町」の邸跡と伝えられ、文張(ふみはり)地蔵尊、小町座像、化粧井戸、文塚、小町歌碑等を訪ね、絶世の美人と伝えられる小町を感じることできます。3月には少女たちにより、小野小町に求婚した深草少将の「百夜通い」の伝説に基づいた「はねず踊り」が催されます。

小野小町化粧井戸
<随心院 小野小町化粧井戸>

小野小町の歌碑も見れます。

「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(百人一首)

随心院
<随心院 小野小町>

絶世の美女と言われた小町は、閻魔大王のもとで役人として働いたとされ、京都へ入る街道入り口に祀られた『六地蔵』を祀った奇人「小野篁」の孫であったとも言われ、霊力を使った逸話が残っています。

平安時代の官僚・学者・歌人と、各分野で活躍した人物である「小野篁」や「六地蔵巡り」について紹介した記事もご参照ください。

>>京のパワースポット:京の盆~六道珍皇寺・六波羅蜜寺・五山の送り火~と閻魔大王ゆかりの800年続く疫病除け『六地蔵巡り』

小町の祖先である「小野妹子」は、滋賀県の小野村の豪族出身。590年に小野妹子は、秦河勝が治める北九州の秦王国にて、厩戸皇子(後の聖徳太子)と運命的な出会いをします。妹子は、607年に聖徳太子の命令によって、国書を持参の上、遣隋使として中国にわたりました。隋は倭国(日本)を国家と認め、翌年には隋の使者とともに帰国したと「日本書紀」に記載されています。

小野妹子は華道の家元・池坊において「華道の祖」として知られ、聖徳太子が建立した京都の六角堂(現:頂法寺)の太子持仏の如意輪観音を本尊として守るように命じられます。

聖徳太子や蘇我氏と一緒に天皇中心の新しい国づくりに携わった小野妹子。

小野一族は、飛鳥時代より京都の洛北と山科に住んでいたと伝わります。平安時代に入ると、滋賀県の領地から交通の便が良い山科へ勢力を広げ、一族が栄えた場所のひとつとされゆかりの場所がたくさんあります。

大本山 隨心院

  • 住所:京都府京都市山科区小野御霊町35
  • 電話:075-571-0025
  • HP
  • 交通アクセス:地下鉄東西線「小野駅」から徒歩5分

日野そして山科の魅力

山科には、実に多くの史実や遺跡が残っています。京都の中心地からは遠いと思われていますが、実は市内からも移動しやすいエリアです。

古代史にはまだ秘められた謎が多く残ります。

ここまで紹介したとおり、天智天皇(中大兄皇子)と中臣鎌足(藤原鎌足)の御陵や遺跡が残されていたり、その蘇我氏と一緒に国づくりに携わった小野妹子の子孫が住んでいた場所があったり、花山天皇が出家された寺が存在していたりと面白い史実が見られます。

また、「日野」には、浄土真宗開祖である親鸞上人が誕生されたとされる誕生院、乳薬師としてもしられる薬師如来で有名な「法界寺」もあります。

日野 法界寺
<日野 法界寺>

親鸞聖人は京都の日野の里で誕生され、父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女(きっこうにょ)と伝えられます。

親鸞上人誕生の地
<日野 誕生院 親鸞上人誕生の地>

また、法界寺は、中臣鎌足を祖とする一族であった「日野家」の菩提寺で、「日野富子」が出たことでも有名です。

歌に思いを馳せながらつつ、ゆっくりと古代の歴史ロマンを感じてみてください。

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RICA NAKAJIMA
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