もしも 『アンネの日記』 がビデオカメラで記録されていたら?

第二次世界大戦中のオランダで、ナチスによるユダヤ人狩りを避けるために隠れ家に潜んでいたアンネ・フランク。もしもアンネがビデオカメラを持っていたら、「アンネの日記」は何を物語ったのでしょう。

目次

世界中で読み継がれている『アンネの日記』

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『アンネの日記』は、第二次世界大戦中のオランダで、ユダヤ系ドイツ人少女のアンネ・フランクによって綴られた日記文学です。

ドイツ占領下のアムステルダムで、ナチスによるユダヤ人狩りから逃れるため、アンネ一家は他の4人のユダヤ人たちと隠れ家に潜んでいました。しかし2年後に匿名の密告によって逮捕され、アンネの父親オットー以外はみな、強制収容所で命を落としてしまいます。『アンネの日記』は、アンネが13歳を迎えた1942年6月12日から、ゲシュタポに連行される3日前の、1944年8月1日まで記録されています。

アンネたち8人が暮らした隠れ家を整備した博物館『アンネ・フランクの家』が、『アンネ・フランク ビデオダイアリー(全15話)/YouTube)』を公開しています。当時のアンネがビデオカメラを持っていたという設定で、隠れ家での苦悩や、ささやかな幸せ、多感なアンネの悲喜こもごもを、映像ならではの臨場感で描きだしています。

ビデオダイアリーに記録されたアンネの苦悩と希望

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アンネが日記を書き始めたきっかけは、13歳の誕生日に父親がプレゼントしてくれた日記帳です。『アンネ・フランク ビデオダイアリー』では日記帳の代わりに、ビデオカメラを贈られて喜ぶアンネが映されています。

アンネは興味を惹かれた全てのものにレンズを向け、彼女の「日常」を録画しました。ドイツ占領下のオランダで日ごとに強まる反ユダヤ主義、「ユダヤ人お断り」の看板、軍人と擦れ違う時の緊張感、そしてまばゆい陽光の中で友達と遊んだ幸せな時間。隠れ家に向かった朝は、両親と足早に移動する様子も記録されています。

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<隠れ家のリビングに集う8人の同居人>

プリンセン運河沿いの隠れ家には、アンネの父親オットー、母親エーディト、姉マルゴーのほかに、ファン・ペルス夫妻と息子のペーター、歯科医のフリッツ・プフェファーの、合わせて8人が身を潜めました。好奇心豊かなアンネは、隠れ家でもビデオダイアリーを記録し続けます。

おどけたダンスで皆を笑わせたり、屋根裏に降りそそぐ日差しを浴びながら、姉のマルゴーと幸せな思い出を語ったり、ピーターに恋をして胸を高鳴らせたり、アンネは明るく無邪気な少女でした。一方で、大人と一緒に戦況を報告するラジオに耳を傾けたり、一人の時間にはビデオカメラに向かって、戦争や差別についての深遠な思想を語る、慎重で聡明な少女でもありました。

オランダ人とユダヤ人の両方として生きたいと願ったアンネ

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<アンネ(左)と姉のマルゴー>

"寛大さと公正さで知られていたオランダの雰囲気は、すっかり変わってしまった。かつては良心的でフレンドリーだった人たちの間にも、反ユダヤ主義が強まっている。この国はもう私たちを望んでいない"

"戦争が終ったら、私はオランダ人とユダヤ人の両方として生きたい。両方になれないことはないでしょう?" 第7話「ユダヤ人に対する憎悪」で語られたアンネ・フランクの言葉

息の詰まるような隠れ家で、2年間にわたり苦楽を共にした8人の生活は、あまりにも突然に終わりを迎えます。1944年8月4日朝、何者かに密告された隠れ家はゲシュタポに踏み込まれ、全員が強制収容所へ送還されました。アンネはヴェステルボルク収容所を経て、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で両親と引き離され、最後はベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスに罹患し命を落としました。

大好きだった友達と、また一緒に学校へ通いたいという願いも、戦後にパリやロンドンを旅するという夢も、書き溜めた日記を出版するという希望も、何一つ叶えられないまま、アンネは15年の生涯に幕を下ろしました。1945年2月、ドイツ降伏の3ヶ月前のことでした。隠れ家の同居人たちも、父親のオットーを除いて全員が強制収容所の中で死亡しました。

ホロコーストだけではない人種差別

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<ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡に佇むアンネと姉マルゴットのお墓。身元確認もされずに埋められた二人の遺体は、現在に至るまで発見されていません>

アンネ・フランク ビデオダイアリー』でアンネを演じたルナ・クルス・ペレスは、自身がオランダで生まれ育ったにも関わらず、メキシコ人とのハーフという出自のために茶化されたり揶揄されてきたといい、日常の何気ない発言や振る舞いに隠された差別を指摘しています。「私たちはみな人間で、どこから来たかは重要ではありません」と、凛々しく主張するルナにアンネの姿が重なります。

私たち日本人も、戦時中の人種差別と無縁ではありません。第二次世界大戦時のアメリカでは12万人もの日系人や日本人移民が、国家の安全保障の脅威になるという口実のもと、強制収容所に収監されました。収監者の7割はアメリカで生まれ育ちアメリカの市民権を持った日系二世でした。

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<強制収容所に送還される日系アメリカ人>

日系人が財産や市民権を剥奪され、戦後も「二級市民」として人種差別にさらされた一方で、同じくアメリカの敵国であったドイツ系やイタリア系の移民は、非人道的な仕打ちを受けることはありませんでした。当時のアメリカでは黄色人種に対する人種差別が激しく、なぜ白人のドイツ系やイタリア系は強制収容されず、日系人ばかりが「敵性市民」として差別されるのか、という疑問を唱える人は殆どいませんでした。

1982年になってようやく、アメリカ政府による調査委員会が日系人の強制収容を「人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政」であったと非難します。すでに多くの日系人が失意のうちに日本へ戻った後のことでした。

一人の人間として人種差別にどう向き合うか

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現在もなお、人種や宗教上の偏見に基づいた差別は撲滅されていません。アメリカ同時多発テロ以降のイスラム恐怖症や、2015年の難民危機で急激に支持率を伸ばした右翼政党、近年ではトランプ政権の不寛容な移民政策や、白人至上主義に影響を受けたヘイトクライムなど、移民や難民、宗教・民族的マイノリティが差別にさらされています。

アンネ・フランク ビデオダイアリー』の中でアンネは、"私がユダヤ人に生まれたというだけで差別されるのはひどい。いつか一人の人間として見てほしい。私がモンスターでないことを解ってほしい" と訴えています。ステレオタイプにとらわれず、互いを理解するために対話をし、人間を人間として見ること。簡単そうで難しい、とても大切なことを、私たち一人一人が実践していかなければなりません。

YouTubeチャンネル:Anne Frank House

・チャンネルURL:https://www.youtube.com/user/AnneFrank
 ※一部日本語字幕あり

・アンネ・フランク ビデオダイアリー:https://www.youtube.com/playlist?list=PLDwwb2V397Q6192UeDFpcNuSoK8uS1cgz
 ※全15話/日本語字幕あり

▼アンネ・フランクの家

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Kayo Temel

オランダ在住。アムステルダムの美術アカデミーで絵画を学び、イラストレーターとして活動中。20年の在蘭経験を活かして、オランダを満喫するためのローカルな情報をお届けします。

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