スペインは芸術家を多数輩出!著名な画家を4名紹介します

こんにちは!スペインのマドリードに暮らす佐助です。スペインは芸術作品の宝庫。そのスペインを訪れて、名作を鑑賞しようと考えている方も多いと思いますが、ただ絵画の前に立ったり、建造物を隅から隅まで歩いたりしてみても、それは「見た」という満足感はあるものの、作品に描かれた奥行や、制作の背景をとらえることは難しいのではないでしょうか。前もって作家の生涯や逸話、作品の内容などを知ったうえで鑑賞すると、見え方が全く違ってきますよ! この記事では、スペインの画家から著名な4人を選び、生涯や名作についてご紹介します!

サムネイル出典:Polski: Muzeum Prado, Madryt, Hiszpania(CC-BY-SA 4.0)

※編集部註:当記事では、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに基づいて画像を掲載しております
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目次

<1. スペインの著名な画家:エル・グレコ>

<2. スペインの著名な画家: ベラスケス>

<3. スペインの著名な画家:ムリーリョ>

<4. スペインの著名な画家:ゴヤ>

1. スペインの著名な画家:エル・グレコ

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<「エル・グレコ」の像(ギリシャのエル・グレコ博物館より)Photo by Gerd A.T. Müller / El Greco, Fodele, Crete, Greece(CC-BY-SA 3.0)

スペインで有名な美術館と言えば、プラド美術館。こちらに入場して鑑賞する絵画といえば、どんなに時間がなくてもエル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの作品が挙げられます。ですが、プラド美術館にある3つの出入口の前にあるブロンズ像の中に、エル・グレコの姿はありません。それは、エル・グレコがスペイン生まれではないからでしょう。しかし、スペインに多くの名作を残し、スペインで生涯を閉じたエル・グレコを、スペインの著名な芸術家から外すことは出来ません。

1.1 ギリシャで生まれヴェネチアからスペインへ渡ったエル・グレコ

本名ドメニコス・テオトコプーロス、エル・グレコの名前は通称として知られる彼の生年月日は定かではありませんが、1541年生まれとされています。エル・グレコは26歳または27歳の時にヴェネツィアに行き、ティツィアーノに弟子入り。ヴェネツィア・ルネサンス様式を学ぶと同時に、図形や地図製作の知識を習得していきます。ヴェネツィアで10年弱を過ごしたエル・グレコは、その後ローマに1年ほど定住。勉強のためイタリア内を周ったのちスペインに渡ります。

スペインに渡ってきた理由としては、当時イタリアでペストが蔓延し、師匠のティツィアーノもペストで亡くなったことから、スペインへ逃げたのであろうといわれています。なお、エル・グレコという名前はイタリア語の「ギリシャ人(グレコ / greco)」と、スペイン語の男性定冠詞である「エル(El)」が組み合わさったものです。

1.2 宮廷画家をあきらめて宗教画家の道へ

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<「聖マウリティウスの殉教」1580年か1582年(エル・エスコリアル修道院収蔵)Photo by Wikimedia(Public Domain)

エル・グレコはスペインの首都マドリードで、フェリッペ2世王(フェリペ2世)の宮廷画家になるために、絵の制作にかかります。しかし、のちにはエル・グレコの絵を収集するようになったフェリッペ2世ですが、当時提出された「聖マウリティウスの殉教」を気に入りませんでした。 宮廷画家になることをあきらめたエル・グレコはトレドに行き、1614年4月7日に亡くなるまでの一生をカトリックの宗教画家として生きていきます。

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<「キリストと聖人たち」(スペイン・トレドのエル・グレコ博物館収蔵)Photo by Tim Adams|Apostolate paintings in El Greco Museum in Toledo, Spain(CC-BY 3.0)

こちらの「キリストと聖人たち」と言う絵は、スペインのプラド美術館にもあれば、トレドの大聖堂、エル・グレコ博物館、その他の多くの教会などにも飾られています。どれが本物かと思うかも知れませんが、全てがエル・グレコのオリジナル。注文があれば、いくらでも描いていました。他にも同じタイトルの絵がたくさんありますよ。

エル・グレコは、当時たいへんな人気者でしたが、人気が出れば出るほど作品の値段はつりあがり、払えないと裁判にかけるほどの金の亡者だったそうです。また、描かれる聖人たちのモデルになったのは、トレドに3つあった精神病院(現在は1つだけ)の患者たちなのだそう。モデル代を節約するためだったのかも知れませんね......。 さて次の項目からは、スペインの美術館で鑑賞できるエル・グレコの代表作と、作品鑑賞のポイントをご紹介します!

1.3 エル・グレコの代表作 : 胸に手を置く騎士

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<「胸に手を置く騎士」1583年(プラド美術館収蔵)Photo by Wikimedia(Public Domain)

最初にご紹介するのは、「胸に手を置く騎士」。こちらの作品で注目して欲しいのが、手です。エル・グレコが描く手を気をつけて見てみると、この騎士の絵と同様に中指と薬指をくっつけて胸や十字架に置いているものが多いのです。

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<「十字架を担ぐキリスト」1602年(プラド美術館収蔵)Photo by Wikimedia(Public Domain)

こちらの「十字架を担ぐキリスト」でも、同じ手の形をしています。いったい、この指は何を意味しているのでしょう? これには諸説あり、「(構図として)きれいに見えるからでは」「聖なる人を表わすハンドサインではないか」という説のほかに、「(エル・グレコ自身が)宮廷画家になれず、金のためにカトリックの宗教画家として生きている。けれど、自分はカトリック教徒ではなく、生まれ故郷のギリシャ正教徒なのだということを表している」という説もあります。

では、この騎士はいったい誰なのでしょう?エル・グレコ自身と思われるかもしれませんが、彼の作品の中には明確に自画像として描かれたものはありません。しかし、宗教画として作成した作品のによっては、群衆の中に自身の姿を紛れ込ませたり、自身を聖人に見立てて描いたものが複数あります。

また、スペインで騎士と聞いてドン・キホーテという作品を思い浮かべる方もいるのでは、ドン・キホーテの作者はミゲル・デ・セルバンテスですが、エル・グレコが生まれたとされている年の6年後に生まれ、1571年のレパントの海戦で負傷し、左腕が利かなくなっています。それを踏まえて「胸に手を置く騎士」を見てみると、左肩が下がっていることに気づきませんか?このことから、騎士のモチーフはセルバンテスではないかとする説もあります。この作品は、マドリードのプラド美術館で見られます。

プラド美術館の基本情報

  • 名 前:プラド美術館(Museo Nacional del Prado)
  • 住 所:Calle de Ruiz de Alrcón 23, Madrid
  • 開館時間:[月-金]10:00~20:00  [日・祝日]10:00~19:00 [1月6日・12月24日・12月31日]10:00~14:00
  • 定休日 : 1月1日・5月1日・12月25日
  • 料 金:[大人]15ユーロ [65歳以上・身体障害者]7.50ユーロ [18歳以下]無料
    ※開館時間、休業日等の最新情報については、公式サイトをご確認ください

  • H P:公式HP
  • Googleマップ:

1.4 エル・グレコの代表作:オルガス伯の埋葬

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<「オルガス伯の埋葬」1586年~1588年(サント・トメ教会収蔵)Photo by Wikimedia(Public Domain)

エル・グレコが2年の歳月をかけて完成させた、最高傑作「オルガス伯の埋葬」は、世界三大名画(※諸説あります)のひとつ。14世紀頃、オルガス伯によって修復されたサント・トメ教会ですが、16世紀に教会の司祭(作品右端で聖書を手にしている人)がオルガス伯へ感謝の意を表したいという思いから、当時名をあげていたエル・グレコに描いてもらったという作品です。

作品左下にいる少年の服から出ているハンカチには、ドメニコス・テオトコプーロスというエル・グレコのサインと、1578という息子ホルヘ・マヌエルが生まれた年が描かれています。 天国から降りてきた2聖人に抱えられているオルガス伯の顔の上には、昇りつつある彼の魂が描かれていますね。マリアと聖ヨハネが乗っている左右に流れる雲は、女性が足を広げているところを意味し、雲の間には、昇ってきたオルガス伯の魂を持つ天使がいます。

頂点にいるキリストが聖ペトロ(マリアの後ろ)に「さあ、開けなさい」と命じる言葉を、周りにいる全ての聖人たちが、息をのんで待っています。今まさに、オルガス伯を聖母マリアの母体に戻そうとする場面を描いた作品です。「オルガス伯の埋葬」は、トレドのサント・トメ教会で見ることができます。

サント・トメ教会の基本情報

  • 名 前:サント・トメ教会(Iglesia de Santo Tomé)
  • 住 所:Plaza del Conde 4, Toledo
  • 営業時間
    [3月1日~10月15日]10:00~18:45 [10月16日~2月28日]10:00~17:45 [12月24日・12月31日]10:00~13:00

  • 休業日:12月25日、1月1日
  • 入館料:[大人]3ユーロ [10歳以下]無料
    ※開館時間、休業日等の最新情報については、公式観光サイトをご確認ください

  • トレド観光情報サイト|サント・トメ教会のページ:サント・トメ教会
  • Googleマップ:

2. スペインの著名な画家: ベラスケス

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<「自画像」1650年(バレンシアの芸術美術館収蔵)Photo by Wikimedia(Public Domain)

スペインが最も誇りとする天才画家ベラスケス、本名ディエゴ・ロドリーゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは、世界三大美術館(※諸説あります)の一つであるプラド美術館の、正面玄関前に銅像があり、パレットと筆を持ち、威厳ある姿を見せてくれています。スペインを照らし続けた太陽がそろそろ傾き始めた時代でも、ベラスケスの才能は最期まで衰えることがありませんでした。

2.1 セビーリャに生まれ11歳で弟子入りしたベラスケス

ベラスケスは祖父の時代に、ポルトガルからアンダルシア州のセビーリャに移住してきた没落貴族の家系とも、ユダヤ教徒からカトリック教徒に改宗した家系ともいわれています。1599年にスペインのアンダルシア州セビーリャで生まれ、同年6月6日に洗礼を受けました。

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<「フランシスコ・パチェーコ」1620年(プラド美術館)Photo by Wikimedia(Public Domain)

1610年12月、ベラスケスは幼い頃からさまざまな才能に溢れていたとされます。彼はわずか11歳の時に、画家であり詩人であり、美術研究家でもあり美術監督官でもる、そしてスペイン美術を研究する上で貴重な史料とされる、「絵画芸術論」の著者でもあるフランシスコ・パチェーコの工房へ入門することになりました。 常に多くの芸術家や学者たちが集まるパチェーコの工房で、ベラスケスは芸術家としての才能を伸ばしていきます。

2.2 最高位の獲得、独立、結婚

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<「フアナ」1630年?(プラド美術館)Photo by Wikimedia(Public Domain)

ベラスケスが18歳になると、パチェーコは「聖像画家」の資格審査を受けさせ、見事合格。画家としての最高位である「宗教画の師匠」を獲得し、独立します。独立してからのベラスケスは、肖像画をはじめ、人物を含めた室内風景や神話の一場面を多く描いていました。 独立した翌年となる1618年、ベラスケスは師匠パチェーコの娘フアナと結婚。当時ベラスケス19歳、フアナ16歳です。翌年には、長女のフランシスカが誕生。その2年後に次女のイグナシアが生まれますが、イグナシアは夭折(ようせつ)しています。 これ以降のベラスケスの私生活に関しては、マルタという愛人がいて子供ももうけていること、娘フランシスカはベラスケスの弟子であるマーソと結婚した、ということ以外はほとんど不明です。

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<「ルイス・デ・ゴンゴラ」1622年(アメリカ、ボストン美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

1622年、ベラスケスは初めてマドリードに出向きます。王の肖像画を描き、宮廷画家になろうと考えたようですが、その目的は果たせず、年の暮れにはセビーリャに戻ります。ところがすぐ、マドリード滞在中に描いた「ルイス・デ・ゴンゴラ」を見たオリバーレス伯爵(本名:ガスパール・デ・グスマン・イ・ピメンテル)から、王の肖像画(消失)を描いてほしいという依頼が届くのです。

2.3 宮廷画家として高い地位を得たベラスケス

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<「オリバーレス伯爵」1636年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

オリバーレス伯爵は、政治能力のなかったフェリペ4世に代わって政治を担っていました。彼はスペインに栄光を取り戻そうと、全国統一の計画を立て取り組みますが、貴族や地域社会からの激しい抵抗にあい失脚してしまったというエピソードがあります。 一方、美術愛好家であったフェリペ4世はベラスケスの作品と人柄を深く愛し、単なる宮廷画家としてだけではなく、外交や大事な行事の取り仕切り役として、重要な地位に就かせます。フェリペ4世の娘マリア・テレサが、フランス王ルイ14世に嫁ぐ婚儀の準備役を全面的に任されたベラスケスは、マドリードに戻った後病に倒れ、同年8月6日に息を引き取りました。

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<「フェリッペ4世」1626年または1628年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

フェリペ4世は、度々ベラスケスのアトリエを訪れ、長い時間を過ごしたそうです。先述の通り政治能力はありませんでしたが、温和な性格で国民からは親しまれました。彼は、1665年9月17日に亡くなりました。

2.4 ベラスケスの代表作:ウルカヌスの鍛冶場

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<「ウルカヌスの鍛冶場」1630年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

ベラスケスの作品には、神話を題材にしているものが多くみられます。神話の登場人物と共に室内の調度品を見事なまでに鮮明に描き上げているというのは、彼がセビーリャ時代に学んだ画法。 この「ウルカヌスの鍛冶場」は、太陽の神アポロ(画面左)が、火と鍛冶の神ウルカヌス(頭に布を巻いている人)の鍛冶場へ下りてきて、「お前の女房(美の女神ヴィーナス)は、軍神マルスと浮気しているよ」と告げる場面を描いたものです。目を丸くしているウルカヌス、あっけに取られている職人たちの表情が面白いですね。

2.5 ベラスケスの代表作:女官たち

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<「ラス・メニーナス(女官たち)」1656-1657年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

この作品は、「マルガリータ王女が、王夫妻の肖像画を描いているベラスケスの仕事場に、たくさんのお付きと一緒に入ってきて、女官に水をもらっている」という場面を描いたもの。大きなキャンバスの前で、ベラスケスが絵を描いてますね。 実は後ろに掛けられた鏡に映っている二人が、ベラスケスが描いている王夫妻です。その王夫妻がいる位置は、この絵を見ている鑑賞者と同位置。近くでこの絵を見ると、王夫妻はベラスケスの近くにいることになるため、描かれている部屋は暗くてとても狭い部屋にしか見えません。

そこで、鑑賞する際は絵からどんどん遠ざかりましょう。すると、描かれている部屋は天井が高くなり、明るさを増し、広がっていきます。その変わりようは、驚きのひと言につきますよ! ベラスケスの名作「ウルカヌスの鍛冶場」、「女官たち」は共にマドリードのプラド美術館で鑑賞できます。

3. スペインの著名な画家:ムリーリョ

ムリーリョ(本名:バルトロメ・エステバン・ムリーリョ)は、スペインで非常に人気のある画家です。日本人ドライバーが神社のお守りを車の中にぶら下げるように、スペインではムリーリョが描いたマリアの絵をぶら下げる、というほどの人気なんですよ。

3.1 セビーリャで生まれ13歳で弟子入りしたムリーリョ

ムリーリョが生まれた正確な月日は分かっていませんが、1618年の元旦にはセビーリャ(またはセビリア)のマグダレナ教会で洗礼を受けているという記録があることから、前年の暮れに生まれたことは確かです。 父親は外科医兼床屋(当時は外科医が床屋を兼ねていました)、母親は画家兼彫金師の家系。 ムリーリョは、14人兄弟の末子です。9歳の時に両親が相次いで亡くなり、姉に引き取られ13歳で母方の親戚である画家フアン・デ・カスティーリョのもとに弟子入りします。 15歳の時には、南米に渡る手続きをしていましたが実行せず、40歳を過ぎるまでフアン・デ・カスティーリョのもとで、修業をしながら作品の制作をしていたそうです。

3.2 ムリーリョにとっての結婚と子供

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<「ナプキンの聖母マリア」1668年または1669年(セビリア美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

ムリーリョは、27歳で5歳年下のベアトリス・カブレラと結婚。以後彼が描くマリアは、ベアトリスがモデルになっています。また、二人は18年間の結婚生活で11人の子をもうけますが、最後の子を産んだ直後にベアトリスが亡くなり、生まれた子もまもなく亡くなりました。ペストが蔓延している時代だったからかも知れませんが、4人の子以外は早世、生き残った子のひとりは耳が聞こえませんでした。ムリーリョの絵のほとんどに子供が描かれているのは、自分の子を慈しむ気持ちもあったのでしょう。

3.3 ムリーリョに舞い込んだ宗教画の依頼

当時のスペインは、反プロテスタントである「カトリック宗教改革(対抗宗教改革)」の最盛期。スペイン中に次々と新しい修道院が建てられ、壁を飾る絵の依頼が絶え間なく入るようになります。 現在はルーブル美術館に展示されている「台所の天使」は、セビーリャのサン・フランシスコ修道院が、回廊を飾る絵として依頼した13点の中のひとつ。横4.5メートル、縦1.8メートルという大変大きな作品です。この仕事を皮切りに、ムリーリョの名が世間に広がっていきます。

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<「聖アンドレスの殉教」1675年以後?(プラド美術館収蔵) Photo by Jl FilpoC|El martirio de San Andrés (Bartolomé Esteban Murillo)(CC-BY-SA 4.0))

1670年頃になると、ムリーリョは薄もやで覆うように幻想的なスティロ・バポローソ(薄もやの様式)という手法で描くことが多くなります。晩年に描いた宗教画のひとつである「聖アンドレスの殉教」には、ほぼ同時代の画家ルーベンスの影響がみられます。

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<「聖カタリーナの神秘の結婚」1682年(カディス美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

晩年、ムリーリョはカディス県にあるサンタ・カタリーナ修道院から、聖堂祭壇を飾る絵を依頼されます。しかし、制作中に階段から足を踏み外し転落。1682年4月3日、64歳でなくなります。依頼された絵は、ムリーリョの弟子フランシスコ・メネセス・オソリオによって完成しました。

3.4 庶民生活と子供達

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<「料理女」制作年不明(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

ムリーリョは宗教画ばかりでなく、庶民の生活も数多く描いていますが、スペインに残るのは「料理女」の1点のみで、他はすべて外国に出てしまっています。 というのもムリーリョは、誰かに仕えた画家ではありませんでした。そのため宮廷画家のように保護されたのではなく、顧客の依頼に応じて絵画を制作し、販売していたのです。先ほど触れたように、当時のスペインはカトリック側による対宗教改革が隆盛をきわめていました。そのため、どん絵を依頼するかと言えば宗教画ばかりだったのです。

逆に他国では、生活感あふれる絵画が大人気でした。そのため、ムリーリョが描く庶民生活の絵を買ったのは外国人ばかりだったのです。この「料理女」は17世紀当時の、ごく普通の台所風景なのでしょう。室内情景を描く厨房画(ボデゴン)は、ベラスケスの絵にもたくさんありますね。

3.5 ムリーリョの代表作:無原罪の御宿り

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<「エル・エスコリアルの無原罪の御宿り」1660年~1665年のいずれかに制作。(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

現存するムリーリョの作品は、分かっているだけで450点ほどありますが、18世紀には収集家たちにより、その半分以上が外国に出てしまっています。 その収集家たちの一人が、スペイン・ブルボン王朝初代のフェリペ5世の妃イサベル・デ・ファルネーゼでした。現在プラド美術館に展示してあるムリーリョの作品は、彼女がセビーリャを中心に各地で収集したものなのです。 ムリーリョによる、「無原罪の御宿り」の題名を冠した絵画は複数あり、いったい何点描いているのかは判然としません。収蔵されている美術館の国を挙げていくだけでも、ロシア、アメリカ、メキシコ、プエルト・リコ、スペイン内では、マドリード、セビーリャ、サラゴサ、カディス......と、実に多くの同じ題名を持つ絵画が存在しています。

プラド美術館だけでも、「無原罪の御宿り」、「アランフェスの無原罪の御宿り」、「エル・エスコリアルの無原罪の御宿り」と3点も展示してあるのです。どの作品も、マリアが中心にいるのは同じですが、マリアの顔はそれぞれ違い、周りにいる天使たちの構図も全く違います。

3.6 ムリーリョの代表作:良き羊飼い

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<「良き羊飼い」1660年頃(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

牧歌的な風景の中に腰を下ろし、従者のように寄り添って立つ大きな羊の背に手を置いたこの幼い子が、なんとなく憂鬱な顔をしてこちらを見ていますね。この絵を見ている鑑賞者は、つい絵の中に引き込まれ、「どうしたの?」と声をかけたくなるでしょう。 ムリーリョの絵はどれを見ても温かく、心癒されるものばかり。名声を得ても驕ることなく、貧しい人たちに手を差し伸べ、いつも物静かで優しい人だったそうです。ムリーリョの人柄そのものが、絵に現れていますね。 ムリーリョの代表作として紹介した、「エル・エスコリアルの無原罪の御宿り」と「良き羊飼い」は、共にマドリードのプラド美術館で鑑賞できます。

4. スペインの著名な画家:ゴヤ

ゴヤの本名は、フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス。プラド美術館の入場券売場がある広場には、人々を見下ろすようにゴヤの像が建っています。後ろには、通りを隔ててリッツホテルがそびえていますよ。 画家そして版画家であるゴヤの作品は、上手い下手ではなくロマン主義の代表者として、登場する人物や構図で表現する彼の主観と、病についばまれていく彼の苦悩を見て取るところに面白さがあると言えるでしょう。

>>>参考:【美術解説】ロマン主義「個人の感情や主観を重要視した芸術運動の祖」(外部サイトへ遷移します)

4.1 サラゴサに生まれ学問と絵の修行をしていたゴヤ

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<ビセンテ・ロペス・ポルターニャ作「フランシスコ・デ・ゴヤ」1826年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

ゴヤは1746年3月30日、アラゴン州サラゴサ県の郊外フエンデトドスで、6人兄弟の第3子としてレンガ造りの質素な家に生まれました。しかし、決して貧しい生活だったわけではなく、父親は工芸物に金銀を施す鍍金師(めっきを行う職人のこと)で、聖堂や教会などの大掛かりな仕事もしています。

家族でサラゴサの街に引っ越し、ゴヤは10歳ぐらいで学校に入り教育を受け、13歳になると、バロック様式の画家であるホセ・ルサンのもとで絵を学び始めました。このとき、後々まで関わりを持つフランシスコ・バジェウとラモン・バジェウの兄弟と知り合い、親交を深めます。 フランシスコ・バジェウがマドリードに出て、宮廷画家になるための学校サン・フェルナンド王立アカデミーへ入学したことに影響されてか、ゴヤもマドリードに移りアントン・ラファエル・メングスのもとで学びながら、17へと20歳の時に試験を受けましたが、どちらも不合格でした。

その後1770年にイタリアに渡り、ローマ、ベネチア、ボローニャなどを転々としながら、巨匠といわれるルーベンスやラファエロなどの絵に触れ、フレスコ画の技法を身につけます。また、イタリア滞在中に描いた絵の1枚がコンクールに入賞しました。その1年後にスペインに戻り、サラゴサで仕事を始めます。

サラゴサでの仕事は、肖像画を描くことが中心でした。プロの画家に肖像画を依頼するのは、上流階級の人たち。ゴヤはどんどん裕福になっていきました。また、ゴヤは10歳未満から女性と関係を持っていて、肖像画を描く女性全てと関係を結んだといわれています。この絶え間ない女性関係が、後にゴヤを苦しめることとなるのです。一方では肖像画を描くと共に、聖堂や教会などを飾る絵も多く手掛けていました。

4.2 宮廷画家になるための結婚

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<「ホセファ」1798年または1814年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

ゴヤは豊かな生活を営んでいましたが、どうしても宮廷画家になる夢を拭いさることが出来ませんでした。しかし、学校は受験しても受からない。さあどうしようと考えあぐねていましたが、既に宮廷画家になっているバジェウ兄弟に、未婚の妹がいることに気が付いたのです。女性に関してはお手のもののゴヤ。1773年、ホセファ・バジェウと結婚します。

その後、1775年から義兄になったバジェウ兄弟の推薦で、マドリードの王立タペストリー工場にて、王宮を飾るタペストリーの下絵描きに携わることになります。ここからが宮廷画家ゴヤの始まり。さらに、1780年にはついにサン・フェルナンド王立アカデミーに合格。果ては同校の学長にもなりました。

4.3 王付きの宮廷画家

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<「カルロス4世の家族」1800年~1801年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

ゴヤは10年以上タペストリーの下絵描きを続け、1786年、40歳にして当時の王カルロス3世付きとなります。1788年末にはカルロス3世が亡くなり、息子がカルロス4世として即位。以降20年近くカルロス4世に仕え、次代フェルナンド7世にも数年仕えています。 「カルロス4世の家族」という作品は、全く統治能力のない王とその家族を描いたもので、ゴヤが大嫌いだったというマリア・ルイサ妃が、威張りくさったように堂々と中央に立っています。また、彼女が手を取っている男の子は、王との間の子ではないと言われているのです。

さらに後ろを向いている女性は、手前にいる皇太子フェルナンドの許婚でした。絵が出来上がる前に破談となったため、今更全部は消せないということで、顔だけ後ろを向くように修正されたそうです。ちなみに、尊敬するベラスケスの真似をして、左上に自分の姿を入れていますが、これはいったい誰を描いているところなのでしょうか?

4.4 「嫌い」という感情を肖像画に込めるゴヤ

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<「マヌエル・デ・ゴドイ」1801年(王立サン・フェルナンド美術アカデミー収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

宮廷画家に憧れつつも、よい政治を行わない権力者に対して嫌悪の感情を向けるゴヤですが、以降もさまざまな作品で嫌悪の感情をあらわにしています。たとえば、近衛兵であったゴドイは、カルロス4世に気に入られた結果首相にまで昇り詰めました。しかし、ゴドイ首相は自分の欲を主とする政治を行った結果、ナポレオンと組んだ皇太子フェルナンドの、民衆を扇動するクーデターで惨敗。財産を没収されフランスへ亡命しました。

一方、ナポレオンと共にゴドイ首相を追放し父を退位させたフェルナンドは、1808年3月19日にフェルナンド7世として即位します。しかし、スペインを自分の支配下に置きたいナポレオンに利用されただけ。5月6日には退位を余儀なくされフランスに追いやられ、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン王ホセ1世として即位することになるのです。

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<「1808年5月2日」1814年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

フランス軍が各国との戦いに敗れ、ホセ1世がスペインから逃げ出した後、再びフェルナンドが即位するのは1813年12月11日のことでした。 プラド美術館には「1808年5月2日」と「1808年5月3日」の大きな2枚の絵が並んで展示してあります。これはフランスとの独立戦争を描いたもので、「1808年5月2日」はマドリードの中心地である太陽の門広場での場面。ろくな武器を持たない市民が、ナポレオンの送り込んだエジプト兵へ、がむしゃらに襲いかかっています。

これらはゴヤがその当時に描いたものではなく、フェルナンド7世が戻った後に命じて描かせたもの。国民の苦しみをよそに、フランスでナポレオンから与えられた住まいで優雅に暮らしていた王を、快く思っていない王の肖像画は全て嫌味な顔に見えます。「カルロス4世の家族」で描かれた、青い服を着た青年と同一人物とは思えませんね。

4.5 病魔に蝕まれるゴヤの苦悩とその晩年

ゴヤは絶え間ない女性関係が原因で梅毒にかかり、1792年に46歳で耳が全く聞こえなくなってしまいます。視力も無くすところでしたが、なんとか回復し、筆は死ぬ間際まで離さなかったそうです。聴覚を亡くしてからのゴヤの絵は、現実離れした悪夢のような摩訶不思議で暗い画風に変わっていきました。晩年、「黒の絵」を描いたゴヤは、1824年異端審問から逃れフランスのボルドーへ行きます。1828年4月16日にボルドーで亡くなり埋葬されますが、のちにマドリードにある、"ゴヤのパンテオ"ンと呼ばれるサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂に移されました。

ちなみに、ゴヤの遺体には首がありません。異端審問にかけられ処刑されたのではなく、当時フランスでは脳の研究のために多くの墓が開けられ、首だけが盗まれたのだそうです。ゴヤも、その一人であろうと言われています。

4.6 ゴヤの代表作:裸のマハと着衣のマハ

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<「着衣のマハ」1800年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

「裸のマハ」と「着衣のマハ」は、ゴヤの作品の中で最も人気があると言えます。特に絵画として優れているとは言いづらい作品ですが、裸や悪魔の絵などを描くことが出来なかった時代に裸を描いたということと、モデルになった女性はいったい誰なのかということで、この絵は非常に人気があります。これらの絵は、先ほど触れたゴドイ首相の財産を没収した際に出てきたもの。そのため、絵のモデルはゴドイ首相の愛人であったペピータではないかという説が最も有力ですが、ゴヤの愛人であったアルバ侯爵夫人という説もあり、いまだに分かっていません。

また「着衣のマハ」は、単に「裸のマハ」をカモフラージュするために描かれたものであることは、枕のレースの透明感やシーツの白さ、女性の顔などを見比べてみると一目瞭然。絵の大きさが全く同じところから、いつ何時人に見られてもいいように、「裸のマハ」の前に「着衣のマハ」が掲げられていて、仲間内で楽しむ時には、紐を引いて「着衣のマハ」を上にあげると「裸のマハ」が現れるようにしてあったのであろうと言われています。

4.7 ゴヤの代表作:我が子を食らうサトゥルヌス

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<「我が子を食らうサトゥルヌス」1819年~1823年(プラド美術館収蔵) Photo by Wikimedia(Public Domain)

耳が聞こえなくなったゴヤは宮廷画家の席を残したまま、1819年マドリード郊外に大きな家を買い、35歳以上年の離れた女性と共に暮らし始めます。ゴヤは外出もせず、あらゆる壁に14の絵を描いましたが、これらは通称「黒の絵」と呼ばれます。「砂に埋もれる犬」、「棍棒での決闘」、「悪魔の集会」といった、闇を通り越した地獄の世界のような絵ばかりです。その中でも「我が子を食らうサトゥルヌス」は、食堂の壁に描いてありました。これはなぜでしょうか? ゴヤと妻ホセファの間には6人の子が生まれたのですが、末子ハビエル以外は、皆幼いうちに亡くなってしまいました。彼は「自分の病気(梅毒)のせいで我が子が死んでいく。」という罪の意識から、この絵を描いたのであろうと考えられています。

ゴヤの代表作「裸のマハ」、「着衣のマハ」、「我が子を食らうサトゥルヌス」は、全てマドリードのプラド美術館で鑑賞できます。ここまで、スペインの著名な画家4名をご紹介しました。どこへ旅行するにしても、現地でプロのガイドを付けることが出来ればなによりですが、時間や予算の都合で難しい方は、インターネットや書籍などで事前に調べておくと鑑賞がグッと楽しくなりますよ!

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