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水の都・大阪市で今も残る渡し船に乗ってきた!
渡し船(わたしぶね)とは?
渡し船と聞くと何となく川を渡るための手漕ぎ船というイメージ、そして「矢切の渡し」を思い浮かべる人が多いと思います。「矢切の渡し」は、東京江戸川の渡し船で今でも運航されています。昔は橋などほとんどない時代に、川を渡るための手段として利用されてきましたが、今は観光用という位置づけが高いように思えます。他にも川を渡るための渡し船はありますが、大阪市には市民の通勤・通学や買い物など日常使われている渡し船が今でも運航されています。それも大阪市が運航し、運賃は無料です。それでは大阪市の渡し船を紹介しましょう!
大阪市は水の都
大阪市は水の都と歌でも歌われるように市内に川がいくつも流れています。今は道路整備が進み、川を橋で渡るのは当たり前と言われていますが、それでも渡船と呼ばれる船が大阪市内に8か所残っています。大阪市が運航しています。なので、何と言っても運賃が無料なのが魅力。そして川なのでほとんど揺れませんし、1〜3分程度の船旅なので、僕も何年か前から気晴らしに乗船したことがありますが、ぜひ記事にしてみようと思い、再度取材を兼ねて乗船してきました。自転車を利用すれば半日程度、徒歩でも1日で8ヶ所回ることができますので、参考にしてみてください。
大阪市の渡船について
『現在、大阪市内には、市の運営する8か所の渡船場があり、15隻の船が地域の多くの人々に利用されています。古来数多くの川が流れ、水の都と呼ばれた大阪には、人々の往来のための渡船場が各所にありました。当初民間によって営まれていた渡船は、明治24年に大阪府が「渡船営業規則」を定め「監督取締り」を行うようになり、明治40年には安治川、尻無川及び淀川筋の29渡船場については市営事業として市が管理することになりました。
大正9年4月、旧道路法の施行により渡船は無料となり、昭和7年4月以降はそれまでの請負制を改め、ほとんどが市の直営方式になりました。そして昭和10年頃には渡船場31か所、保有船舶数69隻(機械船32隻、手漕ぎ船37隻)、年間利用者は歩行者が約5752万人、自転車等が約1442万台を数えました。
しかし、その後橋梁の架設など道路施設の整備に伴って次第に廃止され、特に昭和20年には戦災によってその多くを失いました。昭和23年に15か所で再開されましたが、戦災復興とともに道路をはじめとする都市施設が整備され、モータリゼーションの進展もあって、渡船の利用は次第に減少し、昭和53年には渡船場12か所、利用者数約250万人に、平成30年では8か所約161万人になっています。』【大阪市HPより引用】
①落合上渡船場(おちあいかみとせんじょう)
まず最初に落合上渡船場へ向かいました。落合上渡船場はJR環状線・大正駅または大阪メトロ(地下鉄)・大正駅から自転車で10分程度の距離。
『落合上渡船場は、大正区千島1丁目と西成区北津守四丁目を結ぶ(岸壁間100メートル)。大正区側は旧町名を「新炭屋町(しんすみやちょう)と言い、宝暦13年(1763年)に大坂瓦町居住の炭屋三郎兵衛によって開発された「炭屋新田」のあったところです。明治以降も鉄工所や造船所等の企業が立地するとともに、北方の三軒家方面へ道が延びていました。また、関西随一の木材市場を支えた「大正運河」(現在は埋立てられ千鳥公園の下になっています)の木津川の入口もこの渡しの南側にありました。平成30年度現在、1日平均447人が利用しています。上流にある木津川水門(防潮)が毎月1回程度開閉試運転のため閉まっているのが見られます。【大阪市HPおよび貼られていた説明文より引用】』と記載があります。
大きな通りには渡船場(大正区千鳥側)への案内板が出ています。
こちらが落合上渡船場(大正区千鳥側)の全景です。大正区千鳥から西成区北津守を結んでいます。
こちかが落合上渡船場の案内看板です。中央の記号のようなマークは大阪市のマークです。
手前が大正区千鳥側の乗り場、奥が西成区北津守側の乗り場です。渡船はどちらか片側がベースになっています。落合上渡船場は大正区千鳥側の乗り場がベースになっています。
落合上渡船場では1隻の船によって運航されています。この日は福崎丸によって運行されていました。1隻の船が対岸と行き来しています。
出発時間になると乗員によってゲートが開かれます。船は2名によって運航されています。
乗客が自転車ごと乗り込みます。運賃は無料です。自転車は乗船可能ですが、バイクは乗船不可能です。
落合上渡船場の航路は片道1分30秒程度。大正区千鳥を出発して、西成区北津守に到着後、すぐに折り返して大正区千鳥に戻ってきます。
こちらはこの日予備として停泊していた『北斗丸』です。
時刻表は平日用(月〜金)と土・休日用があります。平日のピーク時は10分おき、それ以外は15分おきの運航です。朝6時台から夜21時台まで運航されています。出発時刻はベースとなっている大正区千鳥側のもので、対岸の西成区北津守側はその折り返しとなります。対岸の西成区北津守側の時刻表も大正区千鳥側の時刻表が貼り出されていますので、この2分後の出発となります。
奥が毎月1回程度開閉試運転のため、閉まる木津川水門(防潮)です。この日は開いていました。
落合上渡船場の詳細はこちら
②落合下渡船場(おちあいしもとせんじょう)
次は落合下渡船場です。落合上渡船場から自転車で5分程度です。
『落合下渡船場は、大正区平尾一丁目と西成区津守二丁目を結ぶ(岸壁間138メートル)。落合下渡船場は開設時期は明確ではないものの、天保10年(1839年)の「大坂湊口新田細見図(おおさかみなとまちしんでんさいけんず)」に「ワタシ」の文字が見えます。対岸の津守(つもり)には、津守新田の産土神を祀る「津守神社」があります。津守の名称は古く「万葉集」にも見えます。また、大正区側の平尾(ひらお)の町名は明和8年(1771年)に開発された「平尾新田」に由来します。平成30年度現在、1日平均361人が利用しています。毎年10月下旬から翌年4月下旬にかけて、数百羽のユリカモメが飛来します。【大阪市HPおよび貼られていた説明文より引用】』と記載があります。
落合下渡船場(大正区平尾側)の案内板です。
落合下渡船場(大正区平尾側)の入口です。
途中、信号灯があります。ここに✕印が表示されていると運航を中止しています。何も表示されていない時は運航しています。
こちらが落合下渡船場(大正区平尾側)の全景です。大正区平尾から西成区津守を結んでいます。
手前が大正区平尾の乗り場、奥が西成区津守の乗り場です。落合下渡船場は大正区平尾の乗り場がベースになっています。
この日はさざなみ丸にて運航していました。どの渡船場の船も同じタイプで、若干、船の大きさが違い、乗船定員が異なります。
出発シーンです。1人の乗員によってロープが解かれ、船を押し出し出発します。
ぐるっと回り、S字状に対岸へと向かって行きます。
この航路も1分30秒程度の所要時間です。
対岸に到着し、乗客が下船するとすぐに乗船が始まり、こちらへと戻ってきます。
落合下渡船場も2隻によって運航されています。この日の予備船はみどり丸でした。
落合下渡船場の時刻表(大正区平尾側)です。こちらも落合上渡船場と同じような時刻表となっていますが、最終は19時台です。
落合下渡船場の詳細はこちら
③千本松渡船場(せんぼんまつとせんじょう)
次は千本松渡船場です。落合下渡船場から自転車で5分程度です。
『大正区南恩加島(みなみおかじま)1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところでした。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、天保3年(1832年)ここに大規模な石の堤を築きました。千本松の名は、この堤防の上に植えられた松並木に由来します。「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」と述べています。千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしませんが、大正時代の中頃に初めて設けられたものと思われます。昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止されることになっていましたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も通勤通学の貴重な足として利用されています。平成30年度現在1日平均約922人が利用しています。【大阪市HPより引用】』と記載があります。
千本松大橋の全景です。歩道が設置されていますので、自転車や徒歩でも渡ることができます。
千本松渡船場の入口(大正区南恩加島側)です。千本松大橋の下にあります。
千本松渡船場のマークです。
手前が大正区南恩加島の乗り場、奥が西成区南津守の乗り場です。千本松渡船場は大正区南恩加島の乗り場がベースになっています。ちょうど乗船が始まりました。
船内のイメージはこのように奥から自転車を進行方向に向けタテに並べるように案内が出ています。
乗船が終わり、乗員によって船が押し出されていくところです。千本松渡船場も2隻によって運航されています。この日はちづる丸によって運航されていました。
対岸(西成区南津守)から渡船が戻ってきました。こちらの所要時間も1分30秒程度です。
着岸もいたってスムーズです。横の出入口ドアは、船によって手動と自動があります。
この船(ちづる丸)の最大搭載人員は64名、旅客定員は62名です。
この日の予備船ははるかぜ丸でした。
※千本松渡船場の時刻は落合上渡船場とほぼ同じです。最終は21時台まで運航されています。
対岸の西成区南津守には造船所があるみたいです。海外向けの大きな客船が建造されていました。
千本松渡船場の詳細はこちら
大正区をサイクリング中
木津川運河を渡る大船橋から撮影した建物。タンクの外枠でしょうか?
今は使用されていないみたいです。
新木津川大橋の下にある木津川飛行場の跡地です。
この記事は『【大阪今昔物語】木津川飛行場跡』にてご覧ください。
④木津川渡船場(きづがわとせんじょう)
次は木津川渡船場です。千本松渡船場から自転車で10分程度です。
『大正区船町1丁目と住之江区平林北1丁目を結ぶ(岸壁間238メートル)唯一の港湾局管理の渡船です。昭和30年12月からカーフェリー(「松丸」134トン)が運航していました。乗用車から大型トラックまで運搬し得る能力を持っていましたが、上流部に千本松大橋が開通した昭和48年の翌年からカーフェリーは廃止され、人と自転車のみを運ぶ渡船となりました。大正区戦災復興事業によって、区内にあった木材関連施設を住吉区(現住之江区)平林へ移転することになり、これに伴い利用者の便に供するため渡船の運航を始めました。利用者は大正区の工場に通う人や住之江区の木材関係で働く人がほとんどです。水がきれいになったためか、渡り鳥が飛来する姿が見られます。平成30年度現在1日平均約159人が利用しています。なお、大正区側の「船町(ふなまち)」の町名は難波宮(なにわのみや)賛美の歌「あり通ふ難波の宮は海近み海人をとめらが乗れる船見ゆ」(巻6ー1063)に由来しています。【大阪市HPおよび貼られていた説明文より引用】』と記載があります。
木津川渡船場(大正区船町)の入口です。工場地帯なので、トラックに注意が必要です。
木津川渡船場は新木津川大橋の下にあります。ベースは大正区船町側です。
木津川渡船場の全景です。この渡船場は1隻で運航していました。
運航していたのは第二松丸でした。
新木津川大橋ができても渡船は活躍しています。
木津川渡船場の所要時間は約2分30秒です。それでは対岸から戻ってくる航路をご覧ください。
木津川渡船場の時刻表(船町側)です。平日の朝夕は10分おきですが、昼間は1時間に1〜2本になります。最終は20時台です。
渡船場ではゲートを通り乗船するまで、危険なので写真やビデオ撮影が禁止されています。
木津川渡船場の詳細はこちら
⑤船町渡船場(ふなまちとせんじょう)
次は船町渡船場です。木津川渡船場から自転車で5分程度です。
『船町渡船場は、大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結ぶ(岸壁間75メートル)。平成30年度現在、1日平均約180人が利用しています。昭和20年代後半から30年代にかけて、川幅が狭いことを利用して対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて人や自転車が通行していました。【大阪市HPより引用】』と記載があります。
船町渡船場(大正区船町側)の全景です。
船町渡船場の大正区船町側から大正区鶴町側を撮影。船町渡船場は大正区鶴町側がベースになっています。岸壁間は75メートルいうだけあって目の前に渡船場が見えます。
船町渡船場の大正区船町側の乗り場です。こちらは折り返しの乗り場になりますので、基本的に無人の乗り場です。
船町渡船場の時刻表(大正区鶴町側)です。平日の朝夕は10〜15分間隔の運航。平日の夜は21時台まで運航しています。
ここを渡ります。渡船が来るのを待っていると貨物船が出港しました。
渡船が到着しました。まず乗客が降船するのを待ちます。船町渡船場も1隻で運航していました。この日の渡船はふなづる丸でした。
渡船に乗船しました。乗員も乗客も「こんにちは」「お願いします」と挨拶していて、とても良い雰囲気です。なお、乗客がゼロということはほとんどないみたいです。
約1分の船旅を終え、大正区鶴町側の渡船場に着きました。順番に降ります。
手前は大正区鶴町側の渡船場です。奥が大正区船町側の渡船場になります。
船町渡船場の大正区鶴町側の待合室です。
船町渡船場(大正区鶴町側)の全景です。船町渡船場はこちらの大正区鶴町側がベースになっています。
船町渡船場の大正区鶴町側には案内板が出ています。
船町渡船場の詳細はこちら
⑥千歳渡船場(ちとせとせんじょう)
次は千歳渡船場です。船町渡船場から自転車で10分程度です。
『大正内港の入口にあたる当地には弘化2年(1845年)開発の千歳新田がありました。この千歳新田と鶴町地区を結ぶ橋として千歳橋があり、市電も運行されていました。この渡しは大阪港復興事業の一つとして大正区の内港化工事を行った際、既設の千歳橋が撤去され、その代わりの施設として設けられました。昭和30年7月にそれまでの民営から港湾局の所管とし(同32年6月直営化)、同39年建設局に移管されました。大正区鶴町三丁目と同区北恩加島二丁目(岸壁間371メートル)間を運航し、渡船から見る大正内港と昭和山の風景は絶景です。「北恩加島(きたおかじま)の町名は、文政12年(1829年)に開発された「北恩加島新田」に由来するとともに「鶴町(つるまち)」の町名は万葉集の歌(巻6−1064)からとられたものです。平成15年4月には、この渡しの上を主橋梁だけでも365メートル、全長では1,064メートル、海面からの高さ28メートルの新「千歳橋」が完成し、夕日に映える姿も美しく大正区の新たなランドマークとなっています。平成30度現在1日平均約530人が利用しています。【大阪市HPおよび貼られていた説明文より引用】』と記載があります。
千歳渡船場の大正区鶴町側の入口です。
千歳渡船場の大正区鶴町側の乗り場です。千歳渡船場は対岸の大正区北恩加島側がベースになっています。
千歳渡船場の上には千歳橋が架かっています。
千歳橋は曲線を描き、とても美しい橋です。
ベースとなる対岸の大正区北恩加島側から渡船がやってきました。
この日の渡船ははまかぜ丸による運航でした。
それでは渡船に乗って対岸へ向かいましょう。
約3分の船旅を終え、対岸の大正区北恩加島側へやってきました。千歳渡船場の時刻表です。時刻表はベースとなる北恩加島側の出発時刻が記載されています。こちらは平日の朝夕以外は20分ごとの運航で、最終は19時台となります。
千歳渡船場の大正区北恩加島側の乗り場です。
千歳渡船場の大正区北恩加島側の全景です。
千歳渡船場の大正区北恩加島側からの千歳橋です。
千歳渡船場の大正区北恩加島側の案内板です。
千歳渡船場の詳細はこちら
⑦甚兵衛渡船場(じんべえとせんじょう)
次は甚兵衛渡船場です。千歳渡船場から自転車で10分程度です。
『昔、尻無川の堤は紅葉の名所でした。「摂津名所図会大成」に『大河の支流にして江之子じまの北より西南に流れて、寺島の西を入る後世この河の両堤に黄櫨の木を数千株うえ列ねて実をとりて蝋に製するの益とす されば紅葉の時節にいたりては河の両岸一圓の紅にして川の面に映じて風景斜ならず 騒人墨客うちむれて風流をたのしみ酒宴に興じて常にあらざる賑ひなり 河下に甚兵衛の小屋とて茶店あり年久しき茅屋にして世に名高し』とあり、甚兵衛によって設けられた渡しにある茶店は「蛤小屋」と呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する人が絶えなかったといわれています。大正区側の「泉尾(いずみお)」の町名は、元禄15年(1702年)に開発された「泉尾新田」によりますが、その名称は開発者の出身地(和泉国つくの村)に由来しています(現堺市津久野町)。現在も甚兵衛渡船場は健在で、大正区泉尾七丁目と港区福崎一丁目を結び(岸壁間94メートル)、朝のラッシュ時は2隻の船が運航しています。平成30年度現在1日平均約1,096人が利用しています。【大阪市HPおよび貼られていた説明文より引用】』と記載があります。
甚兵衛渡船場の大正区泉尾側の案内板です。
甚兵衛渡船場の大正区泉尾側の全景です。
甚兵衛渡船場の大正区泉尾側の防波堤にはこのような壁絵が描かれていました。
甚兵衛渡船場の大正区泉尾側の乗り場です。甚兵衛渡船場は大正区泉尾側がベースになっています。
甚兵衛渡船場のこの日はきよかぜ丸による運航でした。
甚兵衛渡船場の時刻表です。こちらは大正区泉尾側の出発時間になります。平日のラッシュ時は随時運航になっています。最終は21時台まで運航しています。
こちら甚兵衛渡船場でも乗船して対岸に向かいます。所要時間は1分程度です。
こちら甚兵衛渡船場では平日のラッシュ時には2隻で運航するため、他に2隻停泊していました。右手前が海桜丸、左奥がしおかぜ丸です。左手前は乗船用ではないと思います。
右奥が海桜丸、左がしおかぜ丸です。
甚兵衛渡船場の港区福崎側に渡ってきました。こちらは折り返し地点なので、すぐに折り返して出港します。
甚兵衛渡船場の詳細はこちら
⑧天保山渡船場(てんぽうざんとせんじょう)
次は天保山渡船場です。甚兵衛渡船場から自転車で20分程度です。
『天保山(港区築港三丁目)と此花区桜島三丁目を結ぶ(岸壁間400メートル)位置に天保山渡船場があります。江戸時代、安治川の開削によって上流の流砂が堆積し諸国廻船の運航に支障が生ずるようになったので、幕府により、天保2年から2年の歳月と延べ10万1200余人を動員して「御救大浚(おおすくいおおざらえ)」と呼ばれる大工事がおこなわれました。そのときの用底の土砂が積み上げられてできた山を、幕府は「目標山(めじるしやま)」と命名したが、天保年間にできたことから、人々はやがて「天保山」と呼ぶようになり、現在は標高4.53メートルの「日本一低い山」として知られています。明治38 年に開設されたこの渡しは、大阪港の繁栄を企図した大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、昭和15年までは市の港湾部が所管していました。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航していましたが、大阪港の繁栄につれて利用者が増え、築港桟橋を基点に木津川、尻無川方面にも運航区域を広げ、大正11年に天保山桟橋が完成して内航客船が発着するようになってからは、天保山~桜島間を終夜運航した時代もありましたが、昭和元年には現在のルートになりました。昭和初期には桜島付近の重工業化が進んで通勤用としても利用されました。昭和12年12月1日午後9時ごろ、渡船が突風にあおられて転覆、軍需工場帰りの乗客53人の犠牲者を出す事故がありました。昭和15年に経営は土木部(現建設局)に移され、現在にいたっています。昭和42年には1日平均1700人の利用者がありましたが、平成30年度現在1日平均約747人が利用しています。【大阪市HPおよび貼られていた説明文より引用】』と記載があります。
天保山渡船場の港区築港側の入口です。天保山公園の西側に入口があります。
天保山渡船場の港区築港側の全景です。
なお、天保山というのは地名ではなく山の名前です。こちらは天保山山頂から見た天保山渡船場です。
天保山の標高は、4.53メートル。日本一低い山として有名です(笑)。しっかり三角点まであります。海遊館(かいゆうかん)に遊びに来た時に、一緒に登山してみてくださいね!
天保山渡船場の港区築港側の全景です。
対岸に此花区桜島側の乗り場があります。こちら港区築港側がベースになっています。
天保山渡船場の時刻表です。出発時刻は港区築港側が表記されています。対岸はユニバーサル・スタジオ・ジャパン(此花区桜島側の乗り場から少し距離があります)があり、こちら側は海遊館があるのに意外と運航本数が少ないと思います。最終は20時台となっています。
対岸の此花区桜島川から渡船がやってきました。所要時間は約2分です。
この天保山渡船場は桜丸1隻による運航でした。
天保山渡船場の上に架かる橋は、阪神高速湾岸線です。右後方の建物は、リーベルホテル・アット・ユニバーサル・スタジオ・ジャパンです。今年2020年にオープンしたばかりの新しいホテルです。このホテルの後方にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンがあります。
天保山渡船場の詳細はこちら
【参考】大阪港には
天保山公園の隣には水上消防署があります。
後方には消防艇(まいしま丸)が停泊していました。赤白の船体がカッコいいです!
海上保安庁の船舶も見ることができます。
現在(2020年4月現在)、新型コロナウィルスの影響で営業していませんが、天保山大観覧車もあります。
商業施設の天保山マーケットプレイスもあります。【2020年4月現在休業中】
こちらも現在休業中【2020年4月現在】ですが、世界最大級の水族館として有名な海遊館があります。とても大きな水族館で人気の観光スポットです。
海遊館西はとばです。ここから有料になりますが、ユニバーサルシティゆきの船も出ています。
キャプテンラインのサイトはこちら
海遊館西はとばには大阪府警察の船舶も見ることができます。
また、この日は豪華客船ぱしふぃっくびいなすが停泊していました。
大阪港の西端はダイヤモンドポイントと呼ばれる夕日の名所があります。こちらは大阪南港を眺望。
こちらは西側を眺望。天気が良ければ素晴らしい夕日を見ることができるそうです。
ぱしふぃっくびいなすの船尾。
【参考】日本では珍しい沈理トンネルの安治川隧道(あじかわずいどう)
『安治川は、貞享元年(1684)より水都大阪の主要水路として利用され、両岸には回船問屋や船宿が立ち並んでいました。この安治川の両岸を結ぶ渡しとして「源兵衛渡し」という渡し船の乗り場がありました。この渡しの場所に、昭和19年(1944)、川の底をトンネルで結んだ安治川隧道がつくられました。当時は人と自動車の双方が通行できましたが、昭和52年(1977)からは、自動車用のトンネルは閉鎖されています。このような形式のトンネルは全国でもたいへん珍しく、大阪の近代を物語る貴重な文化財のひとつです。【大阪市此花区HPより引用】』
安治川隧道は大阪市西区安治川と大阪市此花区西九条を結ぶ川底トンネルです。こちらは西区安治川側の入口です。
右側の2ヶ所のシャッターが下りたところは、その昔、自動車用のエレベーターとして使用していたそうです。中央に上下の▼ボタンがあります。
安治川隧道の表示が今も残っています。建設されたのは昭和19年(1944年)の戦時中。よくこんなトンネルを建設したものです。
安治川隧道の南側(西区安治川側)のエレベーターです。人と自転車が利用できます。バイクは利用できません。
エレベーターは午前6時から午後24時まで利用可能です。左側には階段があり、こちらは24時間利用可能です。
僕は階段を利用して下りてみました。左側通行で、自転車も押して通行しなければいけません。地下道は24時間監視員が巡回していますので安心して利用できます。
安治川隧道の此花区西九条側のエレベーターの地下階です。
安治川隧道の此花区西九条側のエレベーター前から振り返ったところを撮影。西区安治川から少し下り坂になっていて、最後左に曲がっているのが分かります。なお、地下道内は禁煙です。
安治川隧道の北側エレベーター(此花区西九条側)の地上階です。自転車を先に載せ、歩行者は後から乗ります。自転車はそのまま真っすぐ乗り込み、地下階では奥のドアが開くのでそのまま真っすぐ降ります。
安治川隧道の北側(此花区西九条側)の建物です。こちらも左側に自動車用のエレベーターがあります。
安治川隧道の北側(此花区西九条側)の建物全景です。
再び安治川隧道の北側(此花区西九条側)から階段を利用して地下に下りました。
安治川隧道の北側(此花区西九条側)の地下階のエレベーターです。
安治川隧道を左側通行で歩いて南側(西区安治川側)へ向かいます。天井は三角になっていて、大きなビスが飛び出しています。
このような表示が貼られていました。
安治川隧道のちょうど中間地点です。全長80メートルになりますね。
安治川隧道の南側(西区安治川側)のエレベーターに乗り込みました。自転車が5台程度入ることができます。
安治川隧道のエレベーターのドアです。通常のエレベーターのドアの2台分といったところでしょうか。
地上階に着くといっせいに自転車が外に出ていきます。
※安治川隧道は阪神電車・西九条駅かJR環状線・西九条駅から徒歩5分のところに北側(此花区西九条側)の入口があります。または少し遠いですが、阪神電車・九条駅か大阪メトル(地下鉄)・九条駅から徒歩20分です。
大阪市の渡船場を利用してみての感想と注意点
●自転車を利用すれば半日程度で8ヶ所プラス安治川隧道を巡ることができます。
●潮風を感じながらの数分のクルーズはとても良い体験ができました。
●渡船の船内にはベンチがなく、立ったまま乗船します。
●渡船場まで自転車を利用して遠いのであれば市内にあるシェアサイクルを利用するのも良いと思います。
●アップダウンはそれほどありませんが、結構走りますのでご注意ください。
●途中、コンビニエンスストアや自動販売機はありますが、ドリンクは必ずお持ちにください。
●渡船に乗船、安治川隧道を利用の際は、マナーを守ってご利用ください。
●渡船の乗員や安治川隧道の監視員には挨拶やお礼の言葉を忘れなく伝えましょう。
大阪市の渡船場の詳細
●渡船路線:大阪市内に8ヶ所
●渡船運賃:いずれも無料
●所要時間:片道約1分〜3分
●渡船は人と自転車のみの利用となります。バイクや車は乗船できません。
●もちろん観光目的の利用も可能です。
詳細については、大阪市ホームページを参考にしてください。
※当記事は、2020年3月に利用した際のものです。運航路線や運航時間は上記HPにて事前に確認してください。
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中尾勝
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