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多くの命が散っていたフィリピン・レイテ島で命の尊さを考える

こんにちは!旅での歴史は出会い、歴旅ライターのまえてぃーです。
フィリピンには、マニラのあるルソン島、日本人に人気のリゾートセブ島など、とっても魅力的な島々が数多く存在しています。その中でも今回ご紹介したい場所は、ここ、レイテ島です!
レイテ島とは第二次世界大戦中、日本軍とアメリカ軍が激戦を繰り広げ、多くの命が散った場所として有名な場所です。
今回はここレイテ島で「戦争」とは、「命」とはということを歴史スポットと共に考えていきたいと思います。
目次
レイテ島の歴史
ではまずは歴史を簡単に振り返ってみましょう。
1944年、時代は第二次世界大戦末期。迫りくるアメリカ軍の攻撃に、日本は次第に追い込まれていました。
第二次世界大戦当初、アメリカが植民地としていたフィリピンを、日本はアメリカから奪い、占領していました。もちろん現地に住んでいたフィリピン人ごと。その時に退いたアメリカ軍の大将があのマッカーサーです。
しかし、戦況は次第に反転し、日本は追い込まれるようになりました。フィリピンが破られてしまったら、次に狙われるのは沖縄、そして本土決戦となってしまいます。ですので、なんとしても日本軍はフィリピンをアメリカに奪われるわけにはいきませんでした。
1944年10月、ついにアメリカの艦隊がここレイテにやってきました。艦隊を率いたのはあのマッカーサーです。「フィリピンを取り戻す!」、そう意気込んで彼は再びやってきました。
それを象徴した場所がコチラです。
マッカーサーが上陸する様子を像にしたものです。海から陸に向かって歩いてくる様子を表したものですが、想像以上の大きさに驚きました。
「日本から解放してくれる」。
フィリピンの人たちから見ると彼らは英雄的存在として称えられています。
ついに降り立ったアメリカ艦隊、その数およそ500以上。鳴り響く砲弾の嵐に迎え撃つ日本兵たち。そして散っていく命。
食料も武器も十分ではない状況で、防衛のため戦うしか選択肢がない日本兵たち。餓死する日本兵たちも多くいました。
アメリカ兵は日本兵の3倍以上いたといいます。日本は圧倒的不利でした。
そして約1週間で、日本兵は全体の8割が壊滅。最終的には全体の97%、8万人近くの命がここレイテで散りました。
玉砕の地、リモン峠
玉砕の地となった場所には慰霊碑があります。
国道沿いを進んでいると、見えてくる看板があります。
そして階段を少し上ると。
ここはリモン峠。多くの日本人が玉砕覚悟で闘った場所。そして、爆弾を抱えて突撃を命令された場所。
玉砕の地に今私は生きて立っている。足が重く、でも力強く生きようと思うことができた場所でした。
日本兵と戦ったゲリラ兵の碑
日本兵とアメリカ兵、たくさんの命が散りました。
また、忘れてはいけないのが"フィリピン人も犠牲になった"ということ。
日本軍は食料の補給のため現地のフィリピン人達から調達をしていました。その中には調達ではなく強奪もあり、拒まれると命を奪うということもありました。もちろん無関係な戦いに巻き込まれ死んでいったフィリピン人も多くいました。
それを象徴している場所がコチラです。
この像はレイテ島決戦の時に、ゲリラ部隊として日本軍と戦ったフィリピン人たちを讃えた碑です。
生きたまま海に投げ捨てられて殺されたり、腕や足を切り落とされる拷問を受けたり、日本軍に苦しめられ、奪われる過去を持つフィリピン人たち。
そんな碑を目の前に立つと、申し訳ない気持ちと今こうして仲良くしてくれる、優しくしてくれるフィリピンの人たちに感謝が溢れてきました。
レイテの人の優しさに触れる
そんな日本・アメリカ・フィリピンの3つの歴史が交差するレイテ島。玉砕するまで戦うことを強いられた日本人たち。
日本軍が行った残虐な行為を、フィリピンの人たちから聞くたびに、同じ日本人として本当に申し訳なく感じるとともに、それでも「過去は過去だから」と日本人の私たちに常に優しくしてくれるレイテの人たち。
過去を反省し、「今」を見つめ尊重しあうことで過去を乗り越え、新しい関係を築いていけるのだと感じました。
そんな未来への可能性を感じられるここレイテへ、ぜひお越しください!!
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まえてぃー
- 元ノリノリ世界史教師。教科書に載ってたり載ってなかったりする世界の歴史ポイントをご紹介。旅のついでにそのロマン溢れた世界をご堪能ください。