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【トルコ】1453年、世界が変わった日 ― コンスタンティノープル陥落の地に立つ

東西が交わる古都イスタンブール。壮麗なモスクと宮殿、ボスポラスの蒼い海を巡りながら、帝国の記憶と時代の転換を静かに味わう大人の歴史旅を楽しむことができます。
目次
- (1)コンスタンティノープルの陥落・アヤ・ソフィア・モスク
- (2)世界遺産・イスタンブール歴史地区・トプカプ宮殿ハレム
- (3)イスタンブールのブルーモスク「スルタンアフメト・モスク」
- (4)ボスポラス海峡クルーズ
- (5)いつもの余談です
(1) コンスタンティノープルの陥落・アヤ・ソフィア・モスク
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2024年11月24日(日曜日)イスタンブール。やっと約20年ぶりにイスタンブールを訪れることが出来ました。この都市は人類の歴史上では、最も重要な都市であることは疑いの余地がない。
この都市は東ローマ帝国の末裔であるビザンツ帝国の首都で、当時はコンスタンティノープルであった。この都市は3方向を海で囲まれており、周辺には三重のテオドシウスの城壁で囲まれており、鉄壁の防御態勢を誇っていた。ビザンツ帝国は、古代ローマ帝国が395年に東西に分裂した際に、東方正帝がコンスタンティノープルを首都として統治した東方領として成立から、1453年4月、オスマン帝国の23歳のスルタンメフメト2世は、正規軍8万、不正規軍2万~4万、10万を超える大軍でコンスタンティノープルを包囲し、ビザンツ帝国の皇帝コンスタンティノス11世がオスマン帝国の軍事力に抗しきれず、少数の側近とともにオスマン軍の隊列に向かって突撃してビザンツ帝国は滅びました。この都市は1000年以上東西の交通の要所として栄えた。若き征服者メフメト二世は、アヤソフィア寺院で平伏して、イスラムの様式にのっとって祈りを捧げました。その時、中世は終わって、近世が始まったと言われています。ヨーロッパは東をオスマン帝国にその制海権を取られて、全世界の海に出ていき大航海時代が始まります。また、この地から重要な文献の多くと高名な学者がイタリアに逃避して、イタリアでにルネッサンス運動の開始になったことを考えると、この都市がイスラム勢力に陥落したことは歴史の転換点になったことは間違いない。その後、隆盛のピークを迎えるオスマン帝国も、ヨーロッパが産業革命を迎えて、軍事力を近代化した後も改革が進まず、ヨーロッパ列強にその領土を蝕まれていきました。コンスタンティノープルを陥落させたメフメト二世が平伏したアヤソフィアを撮影してきました。
(2) 世界遺産・イスタンブール歴史地区・トプカプ宮殿ハレム
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公式サイト https://www.millisaraylar.gov.tr/en/palaces/topkapi-palace
ホームページには以下のように説明があります。
【トプカプ宮殿は、1467年にメーメットⅡ世(Fatih.征服王)によって建てられました。その後、19世紀の半ばまで、つまり、オスマントルコの31代スルタン(王様)であるアブドールメジットが、ボスポラス海峡の海岸にあるドルマバフチェ宮殿を建てるまで王様の家として使われました。当時、宮殿に住んでいたのは6,000人ほど。金曜日のお客を加えると、宮殿の人口は16,000人にも増加したそうです。オスマントルコの歴史には、1299~1922年まで、全部で36人のスルタンがいました。スルタンの大部分はトプカプ宮殿に住み、19世紀の半ばにドルマバフチェ宮殿を建ててからも、トプカプ宮殿のハレムは使われました。】
1922年というのは、ムスタファ=ケマル(ギリシャとの戦争にてゲリラ戦を遂行するためにトルコ国民軍を組織して大国民会議を招集した人物)の指導する大国民議会はスルタン制の廃止(帝政廃止)を可決、ラストスルタンであるメフメト6世はイギリス軍艦で脱出し、イギリスの影響下のマルタ島に亡命、オスマン帝国は滅亡した。なお、イスラーム教の宗教上の最高権威であるカリフも、1924年3月3日に廃止された。これから言えるのは、13世紀から20世紀の初めまで、オスマントルコ帝国はスルタン制の元に専制支配をつづけたというのは驚異的ですね。軍事的にはイスラーム教が国家の基本であり続けた間に、西欧は産業革命を経て軍事力も近代化した西欧列強に領地を蚕食されつつ、最後は現在のトルコ領だけに押し込まれ、内部からケマルの改革にてイスラーム専制国家は滅んだことになります。
(3) イスタンブールのブルーモスク「スルタンアフメト・モスク」
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アヤ・ソフィア・モスクを訪れた後、隣に位置するブルーモスクに行きました。イスタンブールでは全部で4つのモスクを訪れたわけですが、ここは2件目なので、まだ、興味深く見ていましたが、流石に4軒目になると、これ以上モスクを見せたら暴れるぞ!!という感じになりました。日本に来る外国人観光客も、NO MORE TEMPLE, NO MOE SHRINE!!と言うのが、よく理解出来ました。
ブルーモスクの名で知られているSULTANAHMET CAMİİ(スルタンアフメト・モスク)は、名前が示すようにオスマン帝国第14代皇帝「スルタン」アフメット1世が、有名な建築家ミマール・シナンの弟子の建築家メフメット・アーに指示し、1609年から1616年に7年かけて建て完成させました。
スルタン・アフメット1世は建築家メフメット・アーに金のミナレット(尖塔)を作るように命じたと言われていますが、この老建築家は耳が遠かったらしく、金ではなく6本のミナレットを建ててしまいました。トルコ語で金は「アルトゥン(altın)」、6はアルトゥ(altı)で、よく似ているので馬鹿げた勘違いでミナレットの本数が増えてしまって、それを見たスルタン・アフメット1世は仰天してしてしまいました。モスクの大本山といえば、メッカのカーバモスクですが、ここのミナレットが6本なので、その他のモスクは4本と決められていました。
慌てたスルタン・アフメット1世は、メッカにもう一本のミナレットを寄贈したので、現在のカーバモスクには7本のミナレットが建っているということらしい。最近、トルコの大統領エルドアンが立てたモスクにも6本のミナレットがあり、分不相応だと非難されているらしい。この大統領、シリアでの政変のドサクサに国境にトルコ軍を集結させて、この際に
シリアにいるクルド人の武装勢力を一掃しようと企んでいるようですが、アメリカが止めている。
ブルーモスクはオスマン建築の最高傑作といわれ、このモスクは、信者がどこに立とうとも、物理的・精神的に平等に神の近くに感じられるような建築要素でなっていて、一番大事なドームは、すでにアヤソフィアの数千年も前から知られてきた建築方式です。
スレイマン大帝のモスクを建てるにあたって、柱のない広大なドーム空間を提供するために、天才建築家のミマール・シナンはこの邪魔な柱を東西の壁の中に埋めこんでしまうことで北と南に三重のアーケードを作り、柱廊と支柱を取り除いてしまいました。そのため、スレイマニエ・モスクには回廊部分がありません。副ドームは大小4つありますが、相互に組み合わせたような形で一つのドームのようになっていて、その天井は信者の上に大空のように広がり、モスク内のどこに立とうが座ろうが、中心にいるように感じられるから不思議です。
(4) ボスポラス海峡クルーズ
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2024年11月26日(火曜日)午後、イスタンブールのボスポラス海峡クルーズに出かけました。
イスタンブールは海により大きく3つの街に分かれている。まず、南北に長いこのボスポラス海峡により、東側がアジア、西側がヨーロッパに分けられている。アジアとヨーロッパの境目がボスポラス海峡と言える。
このヨーロッパ側も「金閣湾」により二つに分けられる。金閣湾の南側が旧市街で、トプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスク、グランドバザール、エジプシャンバザール、テオドシウスの城壁、ヴァレンス水道橋、カーエリ博物館など、ビザンツ帝国時代やオスマン帝国歴史的建物があります。
金閣湾の対岸・北側が「新市街」で、昔はイスラム教徒以外の異教徒・外国人が住居を構えていた地区。今もカフェやレストラン、ショッピングスポットなどがあるエリアです。
船から撮影した写真をアップしますので、良かったら見てください。なお、ボスポラス海峡には日本が建設した橋があります。
政府の広報によりこのように説明されています。【第二ボスポラス大橋は、日本のODA(政府開発援助)のもと、IHI、三菱重工業、日本鋼管、伊藤忠商事などの日本企業と現地企業の協力により1988年に建設されました。全長は1,510メートル、幅は39メートル、車両専用(8車線)の吊り橋です。】
(5)いつもの余談です。
イスタンブールのトプカプ宮殿のハレム。
「3000人の美女」と聞くだけで、世の男性の想像力は勝手に暴走を始めますが、実際のところはもう少し複雑で、もう少し政治的で、そしてかなり組織的でした。
まず、ハレムの女性たちはどうやって集められたのか。
オスマン帝国はバルカン半島から黒海沿岸、コーカサス、中東まで広大な領土を持っていました。特に美貌で名高かったのはチェルケス人(コーカサス地方)やジョージア人の女性たち。戦争捕虜や奴隷商人を通じて宮廷に送られ、厳しい選抜を経てハレムに入ります。
ただし、いきなりスルタンの前に現れるわけではありません。まずはイスラム教への改宗、そして読み書き、音楽、舞踏、礼儀作法、詩作などの教育を受けます。いわば「宮廷エリート養成学校」。単なる"美女の集まり"ではなく、教養と洗練を身につけた女性たちの世界だったのです。
しかも序列は厳格。頂点に立つのは「ヴァリデ・スルタン(母后)」。実質的にハレムの最高権力者です。その下に正妃格の女性がいて、さらに側室たちが続きます。
ここで面白いのは、イスラム法では男性は最大4人まで正式に妻を持てますが、オスマン帝国のスルタンは必ずしも「正式な結婚」を多用しませんでした。むしろ正妻を持たず、側室との間に生まれた男子の中から後継者が選ばれるケースが多かったのです。つまり「4人まで」というルールはあっても、政治的にはもっと柔軟だったわけです。
そして次に出てくる疑問。
「トルコ語も話せない女性と、どうやって会話したのか?」
さすがに毎回通訳を横に立たせて甘い会話をする、というのは現実的ではありません(笑)。
実は、ハレムに入った女性たちは徹底的にオスマン語(当時の宮廷トルコ語)を学びました。数年もすれば普通に会話できるようになります。つまり、スルタンとの会話は基本的にトルコ語。
しかもスルタン自身も多言語話者が多く、アラビア語やペルシア語、さらにはヨーロッパ語を理解する者もいました。帝国の頂点に立つ人物ですから、語学力は外交力でもあったのです。
ですから、
「君はどこの出身かな?」
「チェルケスでございます」
「ほう、黒海の風は冷たいが、美しい土地だ」
などという会話は、きちんと成り立っていたはずです。
ただし、ここで現実を直視しましょう。
3000人の女性が同じ空間に住み、厳格な序列があり、誰がスルタンの寵愛を受けるかで人生が激変する世界。
そこは「男の楽園」どころか、静かな権力闘争の最前線です。
スルタンに男子を産めば、未来の母后候補。
産めなければ、宮廷の片隅へ。
男子が王位争いに敗れれば、命運は一変。
つまりスルタンにとっては、ロマンよりも政治。
そしてハレムは、恋愛ドラマというよりサスペンス劇場。
さて、ここで現代に戻りましょう。
「妻が4人、同じ屋根の下」
想像してみてください。
朝食の席で
「昨夜はどちらのお部屋でしたの?」
と静かに聞かれ、
別の方向から
「スルタン、今日は私と庭園の散策のお約束でしたわよね?」
と微笑まれ、
さらに母后ポジションから
「あなた、国政はどうなっているのです?」
と詰められる。
......帝国の経営より家庭内外交のほうが難易度が高いのではないでしょうか。
結局のところ、ハレムは「男の夢」というより、「帝国版・超高度人間関係マネジメント」だったのかもしれません。
そして私は思うのです。
一人の奥様にきちんと向き合うだけでも、人生は十分に壮大なプロジェクトである、と。
歴史を学べば学ぶほど、
スルタンは偉大だが、
現代の夫たちもまた、静かな勇者なのかもしれません(笑)。
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ドルチェビータ
- 2003年より2011年までイタリア、2014年から2017年まで英国にいました。




























