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生誕500年 千利休をめぐる京の旅

記事投稿日:2022/04/08最終更新日:2022/04/08

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千利休

令和4年(2022)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・茶人として知られる千利休の生誕500年の年です。

利休は織田信長と豊臣秀吉という名だたる戦国武将に仕え、信長の茶頭(さどう)となり「茶室外交」を推し進めたほか、茶頭の立場を越え政治・軍事のアドバイザーにもなるほどの権力や地位を確立しました。

今回は、千利休や彼が残したものの魅力と近辺に伝わる影響などを、ご紹介したく思います。

目次

千利休とわび茶

建仁寺塔頭 お茶

千利休は、村田珠光が創った「わび茶」と呼ばれるお茶の様式を完成させた人物だと言われています。

鎌倉時代に栄西によって禅宗とともに宋から伝えられた抹茶。それまでの茶席では、高価な中国製の茶器を使う豪華絢爛なものでした。また、茶の銘柄を当てる「闘茶」という遊戯などが横行しており、賭博対象にもなっていたそうです。

それに対し、村田珠光は粗末な道具を使い四畳半以下の茶室で、「わび」の精神性を重視した茶の湯を始めました。堺の豪商だった武野紹鷗(たけのじょうおう)がさらに深くわび茶を追究し、その弟子であった利休が大成させ、茶の心を世に広めました。

北野天満宮と北野大茶湯

学問の神様を祀ることで知られる北野天満宮ですが、天正15年(1587)10月、秀吉によって北野天満宮で大茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」が開催されました。この一大イベントをプロデュースしていたのが、千利休と言われています。

それまでの茶会では天皇家や公家や武家など、参加できるメンバーを限定していましたが、この大茶湯では「茶湯に執心で、茶道具の何かひとつ、なければ代替のものを持参すれば、身分を問わず参加できる」という高札を掲げ、誰でも参加できるようにしたといいます。境内には着飾った町衆、商人、茶人、武家たちが集まり、800余りの茶席が境内を埋め尽くしたそうです。

北野天満宮には、北野大茶湯の石碑や井戸がまだ残っています。

北野大茶会

北野大茶会 井戸

千利休が住んでいた晴明神社

千利休の邸宅は、いまの晴明神社のあるところだと言われています。晴明神社には、「千利休屋敷跡」の石碑も見られます。御存知の通り、晴明神社は陰陽師として知られる安倍晴明を祀る神社です。

晴明神社

なぜ、利休が晴明神社の境内に居を構えていたのか、はっきりしたことは分かっていないようです。

ただ、面白いことに、千利休のわび茶には陰陽道の影響がある、といった説もあるようです。わび茶に使われる茶筅が「木」、炉が「火」と「土」、窯が「金」、そして茶をたてる「水」と、陰陽道の基本である「木火土金水」の五行が取り入れられているというのです。もしかしたら千利休は陰陽道について勉強していたのかもしれませんね。

利休は自害で生涯を終えました。しかし、その真相は、わかっていないそうです。秀吉の怒りを買ったから、というのが有力な説のようです。利休自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせたことで秀吉が怒ったのではと言われています。言いがかりじゃないかと思われますが、秀吉をなんらかの理由で怒らせたのは事実なのでしょう。

天正19年(1591年)に、利休は切腹を命じられました。利休の首は、晴明神社の前にある一条戻橋で、秀吉を怒らせた原因となった自身の木像に踏まれる格好でさらされたといいます。

旧一条戻橋
<旧一条戻橋>

一条戻橋
<現在の一条戻橋>

利休が眠る大徳寺

利休の墓は現在、臨済宗大徳寺派の大本山「大徳寺」内の聚光院(非公開)にあります。

大徳寺 三門
<大徳寺三門>

大徳寺は織田信長、豊臣秀吉など戦国武将ゆかりの塔頭(大きな寺の敷地内にある独立寺院)が建立されたことでも知られます。塔頭の多くに茶室が設けられているため、「大徳寺の茶面(ちゃづら)」とも呼ばれています。

塔頭「黄梅院」の直中庭は千利休が作庭したと言われています。ひょうたん池など、見所満載な庭になっており、自害の理由になったと言われる木像の写真も見れます。

千利休 作庭 黄梅院
<黄梅院>

古田織部と織部灯籠

安土桃山~江戸初期の武将、茶人である古田織部をご存知でしょうか。千利休とは1582年頃より親交し、千利休に茶を師事しました。利休七哲の1人と呼ばれています。

秀吉の命で、利休の茶をあらため武門の茶法を広めたこともあり、茶の湯名人として名高い人です。竹筒のような茶入、形のひずんだ沓型茶碗(くつがたちゃわん)、多窓形式の茶室、景気を好んだ露地など織部が好んだ茶器や様式などは「織部好み」と呼ばれ、今でも日本の芸術に大きな影響を与えています。

織部は大坂夏の陣の時、豊臣方に内通したとして切腹。72年の生涯を閉じました。織部の墓は西陣・興聖寺にあります。興聖寺は「織部寺」とも呼ばれており、織部の像などもあります。

2022年は「千利休生誕500年」であり「織田有楽斎没後400年」という記念年なため、40年ぶりに一般特別公開された興聖寺では、織部好みに作庭されており、地面を深く大きく掘り下げ螺旋状の石段を降りた先に手水鉢を据えた「降り蹲踞(つくばい)」や、織部灯籠、茶室「雲了庵」なども見ることができました。

興聖寺でも見ることができた織部灯籠は、織部が創案した石灯籠であるといわれています。興聖寺の他にも北野天満宮や、仁和寺、大徳寺の塔頭『黄梅院』などで見ることができます。

四角柱の竿石の上部が十字架様に張りだし、地面に直接埋め込んで建てるのが主な特徴とされ、十字架の様な形やイエズス会を表す「IHS」が彫られてつことから、「マリア灯籠」や「キリシタン灯籠」とも呼ばれています。

マリア灯籠
<北野天満宮 マリア灯籠>

織部灯籠
<興聖寺 織部灯籠>

織部灯籠
<黄梅院 織部灯籠>

千利休を師事した高山右近や、利休の後妻である宗恩も敬虔なクリスチャンであったことから、茶の湯はキリスト教と関係あるのでは、と言われています。京都市の古田織部美術館にて「織部はキリシタンか?」展も行われたほどです。真相はどうなのでしょうか

陰陽道やキリスト教との関係も囁かれる千利休とお茶の世界。知れば知るほど奥が深いことがわかる世界です。

この機会に、ぜひ千利休をめぐる京の旅に起こしください。

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RICA NAKAJIMA
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