東京都北区と長崎をつなぐ彫塑家と言えば?!

東京都北区は、その名の通り東京の北部、1947年に滝野川区、王子区と呼ばれていた2つの区が合併してできた区域です。23区の中では少々影が薄いかもしれませんが、興味深い史跡も少なくありません。今日はその中でも彫刻にまつわる北区の文化的側面をご紹介しましょう。

目次

長崎の平和祈念像が王子駅に?!

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<王子駅にある高さ2.4メートルの長崎平和祈念像 ©Kanmuri Yuki>

彫刻と北区?と言われても、ピンとくる方は少ないかもしれません。では上の写真はどうでしょう?これはもうほとんどの方がご存じのことでしょう。そう、長崎の平和公園にある平和祈念像と同じ型の作品です。作者は長崎出身の彫塑家(ちょうそか)、北村西望(きたむらせいぼう)。彫刻好きの方ならご存じでしょうが、北村西望の作品の多くは、東京では、井の頭自然文化園の中にある彫刻園に残っています。というのも、同氏が最後にアトリエをおいた場所が自然文化園だったからです。

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<井の頭自然文化園内彫刻園に置かれた北村西望の作品 ©Kanmuri Yuki>

北村西望が、武蔵野市のこの自然文化園に移転してきたのは、1953年のことでした。その理由となったのが、まさしく長崎の平和祈念像です。最終的に高さ9.7メートルになったあの大きな平和祈念像を制作するには、それまでのアトリエは狭すぎたため、東京都から借りて新たにアトリエを建てた土地が自然文化園だったというわけです。

王子駅前の長崎平和祈念像

井の頭自然文化園 彫刻園

>>井の頭自然文化園の詳細はこちらから

西望と北区の浅からぬ縁

それでは、井の頭に移る前はどこで制作活動を行っていたのか?勘の良い方ならもうお気づきのはず。そう、それが今の北区西ヶ原だったのです。当時の滝野川西ヶ原に西望が曠原社の彫刻研究所を開設したのは1922年のことでしたが、実は同氏と北区の縁はそれ以前から続いていました。

1884年長崎で生まれた北村西望は、一旦教師として奉職するものの、風土病にかかり、半年ほどの養生生活を余儀なくされます。そんな折、手さすびに実家の欄間用の彫り物を手掛けたことがきっかけで、彫刻家を志すようになるのです。1903年、18歳で京都の美術工芸学校に入学。首席で卒業した後、更なる研鑽を積むため、1907年22歳で東京美術学校に進学するため上京しました。実はこの時、最初に下宿した場所も、偶然ながら滝野川西ヶ原だったのです。当時は「広々とした畑の中に、他に人家も見当たらぬわらぶきの一軒家(p.43)」があり、その農家が下宿先であったと、後年氏が99歳の時に刊行された自伝『百歳のかたつむり』(日本経済新聞社,1983)の中で述懐しています。その後、下宿先を何度か変えた北村西望でしたが、結婚後1916年には再び西ヶ原のすぐ近くの滝野川川中里に越してきており、自身でも「上中里へ引越の折、私は一つの縁を感じたものである(p.44)」と記しています。

つまり、北村西望は、1916年から1953年まで今の東京都北区に暮らしました。戦中戦後約3年間の疎開時期を除いても、その年数は34年に及んだ計算になります。

徳川吉宗が整え、渋沢栄一が住んだ飛鳥山公園

そういう縁もあり、西望は1981年北区の最初の名誉市民に選ばれています。また、冒頭の平和祈念像以外にも、王子周辺では、西望の作品を二点鑑賞することができます。ひとつは、北区役所前に1982年白寿を迎える西望の言葉とともに建立された『天女の笛』。

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<北村西望『天女の笛』©Kanmuri Yuki>

もう一点は、王子駅に隣接する飛鳥山公園内に1974年建立された『平和の女神像』です。

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<北村西望『平和の女神像』©Kanmuri Yuki>

余談ながら、飛鳥山公園は、明治6年(1873年)に定められた日本最初の公園のひとつです。縄文時代弥生時代から人が住んでいた丘陵地帯ですが、江戸時代の中ごろ、八代将軍吉宗が桜や松、楓などを植えてにぎわうようになりました。今でも春は桜、秋は紅葉の名所として知られます。

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<秋は紅葉、春の桜が美しい飛鳥山公園 ©Kanmuri Yuki>

また、この飛鳥山公園の南側には、日本の近代経済の基礎を築いた渋沢栄一の邸宅がありました。空襲により多くの建物は焼失しましたが、大正時代に建てられた「晩香廬(ばんこうろ)」と「青淵文庫(せいえんぶんこ)」が、「旧渋沢庭園」内に残っています。このふたつの建物は2005年、重要文化財の指定も受けています。(※旧渋沢庭園は2021年2月中旬まで工事のため一時的に閉鎖中)

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<晩香廬 ©Kanmuri Yuki>

これまた余談ですが、渋沢栄一は2024年から新一万円札の顔となることが決まっており、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公でもあります。これらの注目を受け、飛鳥山公園には、2020年11月19日渋沢史料館が誕生しましたし、2021年2月20日には大河ドラマ館も同公園内に誕生する予定となっています。このあたりについてはまた稿を改めてご紹介できればと思います。

>>渋沢史料館の詳細はこちらから

西ヶ原のアトリエその後

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<西ヶ原の彫刻アトリエ館の長屋門 ©Kanmuri Yuki>

さて、話を元に戻しましょう。上述のように北村西望は1953年に井の頭自然文化園へ転居していきましたが、西ヶ原のアトリエは、その後も、西望の長男であり彫刻家である北村治禧(はるよし)が創作を続ける場として機能し続けました。治禧氏もまた彫塑家として大成し、1995年には父と同じように北区名誉区民に選ばれています。力強さが前面に出たものが多い西望の作風とは異なり、北村治禧はむしろ詩情豊かな作品を残しています。

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<北村治禧『麗新』 ©Kanmuri Yuki>

1992年には、JR板橋駅東口の広場に『麗新』が建立されました。たおやかな中にも清涼感を感じる作品です。妖精シリーズが氏の作品としては有名ですが、中でも『妖精I』は内田康夫の小説『北の街物語』に重要なカギを握る像として出てくることで知られます。この『妖精I』は、西ヶ原のアトリエ、上の写真にある長屋門の奥に置かれています。西望・治禧親子が制作に励んだアトリエのその後ですが、治禧氏死去の翌年2002年に、遺族から作品約280点とともに北区に寄贈されました。これは、故人の「若手彫刻家の育成と彫刻芸術の普及を願う」という遺志を受けての寄贈だったそうです。

現在「彫刻アトリエ館(仮称)」と呼ばれ親しまれるこのアトリエは、初心者からプロまで対象にした彫塑教室の場として用いられています。普段は非公開ですが、2004年からは公益財団法人北区文化振興財団により毎年9月終わりから10月にかけて一週間だけ希望者への公開もされています(要事前申し込み)。その折には、北区に寄贈された北村両氏の彫刻作品も展示されます。普段しまいこまれているのが惜しい作品の数々に圧倒されること請け合いです。ちなみに同財団は、1989年から毎年5月、彫刻の展覧会、北彫展も主催しています。北村西望が西ヶ原に住んだ縁がこんな風に続いていると思うと、なおのこと趣深く感じます。

もうひとつの平和祈念像

ところで、北区のお隣板橋区役所前には、北村西望最晩年の1987年建立された平和祈念像があります。高さ2.5メートルのこの立像は、西望が長崎に依頼された平和像の試作を繰り返す中生まれた『立像試作』をベースに作られたものです。

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<北村西望『平和祈念像』 ©Kanmuri Yuki>

長崎平和祈念像は、試案づくりから始まり、最終案の八尺像(約2メートル40センチ)までは西ヶ原のアトリエで作られました。その後、井の頭自然文化園に場所を移し、1954年(昭和29年)4月、原寸大の本体石膏像の完成に至ります。石膏像ができたら、次は鋳造という手順になるわけですが、そのための鋳物工場建設は、周辺住民の反対にあいアトリエのある自然文化園に建てることができませんでした。紆余曲折の末、鋳物工場建設のために西望が土地を買ったのが、板橋区志村中台町です。つまり、長崎平和祈念像の鋳造は板橋区で行われたのです。偶然とはいえ、ここにも何かの縁を感じてしまいます。

北区と長崎、そうして武蔵野、板橋区にも通ずる縁。そのあれこれを感じながら、彫刻散歩に出かけてみませんか?

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冠ゆき

山田流箏曲名取。1994年より海外在住。多様な文化に囲まれることで培った視点を生かして、フランスと世界のあれこれを日本に紹介中。

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