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京のパワースポット:明智光秀ゆかりの地めぐり ~麒麟は現れたのか?~

記事投稿日:2020/12/14最終更新日:2020/12/14

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目次

明智光秀の死にまつわるナゾ『明智藪』『明智胴塚』『明智首塚』『粟田口刑場』

人気NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀。

謎多き「本能寺の変」ですが、天下統一を目前にした織田信長を討った信長の重臣が明智です。戦国時代でも人気武将の一人ですが謎も多い人物です。今回は第17回京都検定試験3級の出題テーマでもある『明智光秀とその時代』に関わるスポットを巡りつつパワーも頂いちゃおうと思います。

明智光秀という人を私は幼少時から親しく思ってきました。実家からそう遠くないところに明智藪、明智胴塚、明智首塚があり光秀の名前は地名として会話に出ていました。「光秀の死」に関しては謎が多く、事実はわかっていません。

明智藪

Japan2011-02.jpg 明智藪 石碑.JPG

光秀は本能寺の変(1582年)からわずか2週間後には中国大返しで戻った羽柴秀吉に、天王山・山崎の戦いにて敗れました。

「三日天下」でしかなかった光秀が坂本城へと逃げる際に絶命したとされる『明智藪』は伏見小栗栖にあります。そこに足を運ぶと農民(?)に竹藪で槍に突かれて襲われ、落武者狩りにあい致命傷を受けたとされる地を踏むことができます。

実際に刺された場所は「ワタ出」と呼ばれました。脇腹に刺さった竹槍を引き抜いた時に、その弾みで光秀の腹から血と内臓が地面に飛び散り、"はらワタ"が"出た"場所にはその後、竹が生えることはなかったとか。近辺には光秀の怨念による赤い枝や葉の竹が無数に生えてきて、どこからともなく軍勢の雄叫びが聞こえる"怪奇現象"が起こったそう。

今では土砂崩れ防止の工事で竹藪を所有する本経寺により竹の多くは伐採されましたが、光秀の死後に建立された本経寺の境内では「悲運の戦国武将、光秀の供養を捧げて歴史の一端を伝える」と書かれた供養塔を見ることができます。

本経寺・明智藪 基本情報

  • 住所:京都市伏見区小栗栖小阪町5
  • 電話番号:075-571-2173
  • アクセス:市営地下鉄東西線「醍醐」下車徒歩約15分、京阪バス「小栗栖」下車徒歩約5分

明智光秀胴塚 基本情報

Japan2011-03.jpg 明智 胴塚.JPG

そこから2キロほど行った山科の勧修寺近辺には『明智光秀胴塚』があります。明智藪で致命傷を負った光秀は馬で逃走したが最後を悟って自刃、部下に自身の遺体を隠させ、首は「知恩院」に届けて欲しいと言い残したと言われてます。のちに発見された光秀の首は、本能寺や粟田口にさらされた後に近くに埋められたとか、近江の坂本城に持ち帰ったとか、諸説ありますが胴体はこちらに一旦は埋められた(隠された)と言われています。

この胴塚は全く人目につかない精米機の片隅にあり、何年もこの前を通っている私の家族ですら気が付かないほどにひっそりとありました。

この辺のボランティアガイドによる話では、当時は馬が放牧された草地や田んぼだらけで東国と西国を結ぶ交通の要所として開けており、光秀は伏見の大亀谷を経由して小栗栖を通る道をよく使っていたそうです。

明智光秀胴塚

  • 住所:京都府京都市山科区勧修寺御所内町36
  • アクセス:市営地下鉄東西線「小野」下車徒歩約10分

明智光秀首塚

Japan2011-05.jpg 光秀首塚 五重塔.JPG

伏見や山科エリアから東山の白川橋の方へ移動すると、柳の並ぶ京らしい風情の中に案内を見ます。

「知恩院」への道にある路地を進むと左手にこじんまりとした祠が現れ、隅に置かれているこの五輪塔墓こそが光秀の塚の本体と言われています。天正年間に書かれた公家日記には、光秀の遺骸が曝された後に首塚を築き埋葬したと記されています。別説では能の笛吹で、光秀の子孫を名乗る明田理右衛門なる人物が、粟田口の首塚にあった石塔を梅宮町の私宅に運び移したものがこの石塔とも。

祠の中には明智光秀の木造が鎮座しており遺品もあったそうで、この塚に祈願すると、首から上の病気に霊験があるといわれています。霊を慰める対象から信仰対象となり今ではパワースポットとも言われています。

亀岡の谷性寺にも光秀の首塚はありますが、光秀の末裔である明智憲三郎さん曰く東山の方が本物とか。ただ、光秀の影武者がいたという説もあるので、晒されていた首が本当に光秀かはナゾです。

この首塚を江戸時代から250年もの間代々守ってきた、表通りに面している和菓子屋「餅寅」では桔梗紋の焼き印が入った「光秀饅頭」を購入できます。『桔梗紋』は光秀の家紋として有名です。何を隠そう、うちの家紋も『桔梗紋』なので何度か桔梗紋がついた饅頭をいただいています。

Japan2011-04.jpg  白川 餅寅 首塚印.JPG

<明智光秀首塚 基本情報>

  • 住所:京都市東山区三条通白川橋下る東側梅宮町474-23
  • アクセス:市バス「神宮道」下車徒歩約3分、地下鉄東西線「東山」下車徒歩約5分

餅寅 基本情報

  • 住所:京都府京都市東山区白川筋三条下る梅宮町475
  • 電話番号:075-561-2806
  • 定休日:火曜
  • 営業時間:8:00~18:00

粟田口刑場

Japan2011-06.jpg 粟田口刑場 説明書.JPG

光秀の最初の首塚が築かれた『粟田口』は東海道の山科から京都への入り口にあたる場所で、蹴上~九条山のふもとまでの街道沿いを指します。京都市内が一望できる将軍塚の麓で、洛中と洛外を結んだ街道の出入り口です。現在では寂しい山あいの雰囲気を漂わせていますが、人の往来の激しい交通の要所で多くの罪人の遺体が一罰百戒の見せしめとして晒されていたそうです。江戸時代より前から存在し、約15,000人ほどが処刑されたと推測され、光秀のみでなく京都のキリシタンを処刑した記録も残っています。

粟田口の刑場は明治維新後に廃され、1872年に京都府によって粟田口解剖場が置かれました。その跡地に供養塔がひっそりと建てられています。

オリジナルの場所『旧本能寺』『旧二条城』『二条御所』

旧本能寺

Japan2011-07.jpg 旧本能寺跡 石碑.JPG

天正10年(1582年)6月京都本能寺にいた織田信長を配下である明智光秀が急襲した「本能寺の変」が起こりました。今では旧本能寺は石碑のみが残され、そこは『本能消防分団』の器具庫となってます。

旧二条城

Japan2011-08.jpg 旧二条城跡 石碑.JPG

室町幕府最後の将軍・足利義昭は「本国寺の乱」で光秀らに命を救われましたが、防御の整備が急務と考えた信長により、新御所として約70日で旧二条城が築城されました。しかし信長と義昭の関係がのちに悪化し戦いに敗れた義昭は京都を追放され廃城となります。旧二条城の石碑は京都御所の脇にある平安女学院大学の敷地内にあります。

二条御所

Japan2011-09.jpg 二条御所 ・ マンガミュージアム裏.JPG

「本能寺の変」があった夜、二条御所の隣にあった妙覚寺に宿をとっていた信長嫡男である信忠は二条御所に移動し、誠仁親王らを逃がして明智軍と奮戦するも、最期は自刃。光秀は天下から織田家を排除することに成功しました。旧本能寺からは北東700mほど離れていました。

旧二条城と二条御所は別のもので、二条御所は藤原氏一門で五摂家のひとつである二条家が邸宅の景色を信長が気に入り上洛時の宿所としてこれを改修、後に誠仁親王に譲って二条御所と呼ばれるようになったところです。

現在の世界遺産『二条城』(1603年)は徳川家康によるもので全く別ものです。

「本能寺の変」と信長の遺体のナゾ『本能寺』『阿弥陀寺』

敵は本能寺にあり

Japan2011-10.jpg 本能寺 寺町商店街.JPG

戦国時代の武将明智光秀が本能寺の変の際に発したとされる言葉。主君の織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられた光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であると急遽、本能寺に向かいます。

「本能寺の変」は光秀単独説のほか、室町時代15代将軍足利義昭黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、朝廷黒幕説、徳川家康黒幕説、四国政策説、本願寺黒幕説、イエズス会黒幕説など戦国時代最大のミステリーと言われています。

現在の本能寺さんは京都市役所の向かいにあり信長の供養塔の横には大木がそびえ、寺町商店街の憩いの場となっています。

阿弥陀寺

Japan2011-11.jpg 阿弥陀寺 織田信長石碑 紅葉.JPG

織田信長の遺体はどこへ消えたのか?今世でも謎とされていますが、信長の墓所は全国に10カ所以上あります。

開山の清玉上人の尽力で阿弥陀寺の墓所が本廟として認められ、他所は供養塔と言われるそうです。信長や正親町天皇の帰依を受けた阿弥陀寺の清玉上人は、織田家と深い縁を持ち、信長とは幼少期を共に過ごした間柄(一説には幻の異母弟?)。寺伝によると、本能寺の変が起こった時に清玉上人は駆けつけたが信長は既に亡くなっていたため、その場で火葬し遺骨を法衣に包んで持ち帰ったと言われています。

本堂には、織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には織田信長、信忠や森欄丸ら三兄弟の墓、本能寺の変討死衆の墓があり1917年に信長を正一位に追贈する等の宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認されて勅使の来訪があったと言います。1585年に豊臣秀吉の京都改造により現在地に移転。その際に秀吉の数々の申し出を辞退した上人への嫌がらせからか、広大な寺院であった阿弥陀寺領はかなり縮小されました。

ここでは紅葉の美しさと共に信長のパワーや家族愛に触れることができます。

Japan2011-12.jpg 織田信長 本廟.JPG

光秀ゆかりの地『本圀寺』『南禅寺塔頭 金地院』『愛宕神社』『廬山寺』『妙心寺塔頭 大嶺院』

本圀寺

Japan2011-13.jpg  旧本圀寺跡 石碑 六条黒門通り.JPG

寺は足利氏の庇護を受けましたが、1569年に本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生。鉄砲の名手であった明智光秀は「やにわに三十騎ばかりを射倒し」て大活躍、一命を取り留めた義昭は二条御所に移り住みました。水戸光圀の名から一字を下され本国寺から本圀寺と改称。本圀寺が荒廃後、六条堀川から山科に移転、桜並木が見事な琵琶湖疏水沿いにあります。

南禅寺塔頭 金地院

Japan2011-14.jpg 明智門.JPG

『明智門』と言われる門があります。

「本能寺の変」後、光秀が母の菩提のため黄金1,000枚を寄進して大徳寺に建立した桃山建築の唐門で、明治初期に金地院に移転されました。金地院は、崇伝長老が南禅寺塔頭に移建。崇伝は徳川家康に近侍し天海僧正と共に幕議に参画しました。

南禅寺塔頭・金地院 基本情報

  • 住所・所在地:京都市左京区南禅寺福地町86-12
  • TEL 075-771-3511
  • 営業時間:8:30~17:00(12~2月は~16:30)
  • 定休日:無休
  • アクセス:地下鉄東西線「蹴上」下車、徒歩約5分
  • 市バス「南禅寺・永観堂道」下車、徒歩約10分

愛宕神社

「ときは今 あめが下しる 五月哉」

この句が詠まれたのは、1582年5月当時、武士の間で軍神信仰の深かった愛宕神社で愛宕百韻を開催した時でした。また「本能寺の変」4日前に亀山より明智越えと言われるルートを通り愛宕さん参拝。太郎坊(愛宕山に祀られる天狗)の前において、三度クジを引いて決心したと言われます。(2度凶、3度目大吉)

愛宕神社 基本情報

  • 住所:〒616-8458 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
  • 電話:075-861-0658
  • アクセス:京都バス「清滝」バス停から徒歩約2時間
  • 参拝時間:境内自由、授与所9:00~16:00

廬山寺

Japan2011-15.jpg 廬山寺 期間限定御朱印.JPG

光秀を護持した念持佛である地蔵菩薩が特別公開され、期間限定の御朱印も。紫式部の邸宅としても知られる廬山寺は、比叡山延暦寺焼き討ちの際、天台宗の関係寺院ということで光秀に攻められましたが、当時の正親町天皇が光秀に取り次いで焼き討ちを免れたそうです。

>>>【京のパワースポット】コロナ禍で古代伝承の厄&疫病除け祈願

廬山寺 基本情報

  • 住所:京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町397
  • 電話:075-231-0355
  • アクセス:京阪鴨東線「出町柳」より徒歩約15分、「神宮丸太町」より徒歩約15分、地下鉄烏丸線「丸太町」より徒歩約20分
  • 拝観時間:9:00~16:00

妙心寺塔頭 大嶺院

Japan2011-16.jpg 明智風呂 光秀饅頭 .JPG

『明智風呂』と言われる"光秀の菩提を弔うため"に、光秀の叔父である密宗和尚が光秀の亡くなった5年後に創建した浴室があります。写真撮影中、急ににわか雨が降りました。雨宿りしながら探幽作《雲龍図》別名「八方睨みの龍」のパワーを感じ、光秀もしくは龍が雨を降らしたのかもと感慨深くなりました。『雨降って地固まる』。

妙心寺 基本情報

  • 住所:京都市右京区花園妙心寺町1
  • 電話番号:075-466-5381
  • 拝観時間:境内自由
  • 拝観料:境内無料
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記事投稿日:2020/12/14最終更新日:2020/12/14

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