【スペイン】ゲルニカの本当の意味を知ってピカソと出会う旅

"ゲルニカが空爆されたぞ!!"

それこそが、人類史上最も有名な絵画が産声をあげた瞬間でした。

みなさんこんにちは!歴旅ライターのまえてぃーです。

今回ご紹介したい場所は、ここスペインのマドリードにある、「ソフィア王妃芸術センター」です。

そう、この美術館は、史上最も有名といっても過言ではない絵画、ピカソによる「ゲルニカ」が展示されている美術館なのです。ただの絵画ではないこのゲルニカの歴史は、きっと私たちの心に熱く黒い炎を灯す。

ピカソとゲルニカが歩んだ激動の歴史ヒストリー。ぜひ最後までご覧ください!!

目次

ゲルニカとは!?

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「ゲルニカ」。それは1937年に作成された巨匠、パブロ・ピカソによる超大作です。

ピカソと聞けば誰もが"画家"であることはイメージできると思います。そして、今回の主人公ゲルニカも、ほとんどの美術の教科書に記載されているため、私たちはその絵を一度は目を通したことがあると思います。

しかしその印象は、、、"奇妙"、なのではないでしょうか??

なぜそれがそれほど評価されるか分からない。自分でも描けそう。。。と思ったことがある人もいるかもしれません。

しかし、ゲルニカにはピカソの、いや人間の本性を暴くかのような勢いと残酷さが描かれていると言われています。制作の裏には並々ならぬピカソの情熱、そしてその土台は"怒り"だったことを、いったいどれほどの人が知っているでしょうか?

まず、ピカソに焦点をあてて見ていきましょう。

ピカソ年表

ピカソは1881年スペインのマラガで生まれたスペイン人です。

画家であった父の影響もあり、幼少のころからピカソは絵をたしなみます。そして、1973年に91歳で亡くなるまで絵を描き続けた生粋の画家です。

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<ピカソが生まれたマラガの街並み>

ピカソの父は、模写・デッサン・石膏など、惜しみなく少年ピカソに様々な技法について教えました。

才能もあったのかもしれませんが、ピカソは1日に何度も絵を描く情熱の持ち主でした。

その甲斐もあり、美術の名門サンフェルナンド王立アカデミーに進学するも、授業のつまらなさや規律に嫌気がさし、入学後すぐ辞めてしまいました。ピカソの感性や自律心は型や枠に当てはめようとしても無理だったようです。

スペインでピカソはマドリードだけでなく様々な街の美術館や画家たちに刺激を受け、美術技法だけでなく、出会った人々との友情も築いていきました。

ピカソとパリと戦争と

ピカソはその後、フランスのパリに住み始めました。この頃から世界には第二次世界大戦という戦争の影、とりわけヒトラー率いるナチズムがヨーロッパを侵食し始めていました。

そして、祖国スペインでは、ナチスの後ろ盾を得たフランコ将軍率いる反乱軍と、スペイン共和国政府(政府軍)による対立が悪化し、国内は内戦状態になってしましました。

当時の日本は、フランコ将軍側を支援していました。学校で習った『日独伊三国同盟』を覚えていますか??味方の味方は味方、ということですね。

そんな社会情勢の時、すでに巨匠としての地位を確実なものにしていたピカソのもとに1つの依頼が舞い込みます。それは、「パリで行われるパリ万博(1937年)のスペイン館の目玉に、"壁画"を描いてくれないか」というものでした。依頼者はスペイン共和国政府でした。

ピカソは悩みました。悩んだ末、ピカソはその申し出を受け入れることにしました。

ゲルニカ誕生

ピカソがパリに住んでいたころ、パリはナチスに占領され、スペインはそのナチスに迎合するフランコ将軍が力を持っていました。スペインがナチスに染まるのも時間の問題でした。

そのような状況の中、美術、"絵の力"でナチスに対抗してほしいという政府側の要望をピカソは受け入れました。愛する故郷が、ナチスのファシズムに塗り替えられることを、ピカソ自身も歓迎はしていませんでした。最初ピカソは、フランコ将軍を批判するテーマで絵を描こうとしていたそうです。

そんな時、運命の日がやってきます。

1937年4月26日。

スペインのバスク地方にある街・ゲルニカがナチスにより無差別空爆され、街が"全滅"してしまったのです。バスク地方は独自の自治を掲げ、民主主義と独立の精神をこの街で唱えていました。それを気に食わなかったのか、見せしめのためなのか、なぜゲルニカが狙われたのかは諸説ありますが、何の罪もない人々が大量の爆弾を投下され、その命を散らしていました。

その事実を新聞で知ったピカソは驚愕し、これまで考えていた作風やテーマを一掃します。アトリエにこもりきりになり、一心不乱に絵と、自分と、戦争と、人間と向き合っていました。

そして完成した縦349.3cm、横776.6cmという超大作。

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<ゲルニカの意味を知ると見方も変わる...>

逃げ惑う人々、荒れ狂う馬、泣き叫ぶ女性、ぐったりとした子ども...。

それはもはや「ゲルニカ空爆」に留まらず、戦争の持つ悲惨さ、人間の持つ残忍さを、同じ人間であるピカソの本能が、彼の身体を動かし、筆をとらせたような印象ではないでしょうか。

この絵がパリ万博で公開された時、各界の反応、世論の反応は実に様々でした。そして、なんとそれほど注目を浴びることはなかったとされています。

この絵を描いたのはあんた達だ

ある日ピカソは、ナチス側の人物から問われました。「この絵を描いたのは貴様か?」と。

するとピカソはこう答えました。

「いや、この絵を描いたのはあんたたちだ」。

私はこのエピソードが世界史の中で1番好きと言ってもいいほど好きです。戦争がなければこんな悲劇的な絵画を生み出すことなんてなかった。これを描かせたのはナチスだ、という強烈なピカソの皮肉に、脱帽です。

ゲルニカの歩んだ旅路

そして戦争が終わり、ここからゲルニカの旅は始まります。

ノルウェーやイギリスなどを巡回展示されたゲルニカは、世界中で喝采と感動を与えます。

ピカソの情熱、戦争の悲惨さ、人間の残虐性、、、モノクロの絵からゲルニカは世界中の人々の心を突き動かしていました。

そして世界最大の「反戦メッセージを持つ絵画」としてゲルニカは不動の地位を得ます。

ピカソは展示で得た報酬をスペイン内戦復興の支援にあてています。

しかし、このゲルニカをすぐにスペインに戻すことはできませんでした。そこにはピカソの「完全な民主主義国家となるまでゲルニカはスペインには送らない」という信念があったからです。

そして、スペインが完全な民主主義になるまでゲルニカはニューヨークの近代美術館に保管され、ゲルニカ誕生から約40年、ついに完全民主化を果たした1981年にスペインに返還されました。

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<美術館には無料で入れる時間帯もあるので要チェック!>

おわりに

いかがでしたか?たった1枚の絵画の裏にあるストーリーを知るだけで、こらまでとどこか見方が変わってくるのではないでしょうか?「ソフィア王妃芸術センター」にはゲルニカだけでなく、ピカソの他の作品やダリやミロの作品、さらには現代アート作品が多数展示され見ごたえたっぷりの美術館です。

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<サルバドール・ダリ「大自慰者」>

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<現代アートとは>

ぜひ訪れてピカソの情熱に勇気と強さを感じてみてくださいね!!

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まえてぃー

元ノリノリ世界史教師。教科書に載ってたり載ってなかったりする世界の歴史ポイントをご紹介。旅のついでにそのロマン溢れた世界をご堪能ください。

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