「あきらめない心」本物のアスリート中西麻耶

中西麻耶

こんにちは!たびこふれのシンジーノです。今日は皆さんに伝えたい人がいます。その人の名前は中西麻耶さんといいます。ご存知ですか?

目次

中西麻耶プロフィール

中西麻耶

経歴

  • 1985年6月3日生まれ 大分県由布市出身
  • 陸上アスリート(パラリンピック3大会出場)
  • 高校時代にソフトテニスでインターハイ出場
  • 2006年勤務先の事故で右膝から下を切断
  • 2007年から陸上をはじめる。
  • 陸上への転向直後に100m、200mで当時の日本記録を樹立。
  • 2008年北京、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロとパラリンピック3大会連続出場
  • 2016年には走り幅跳びでアジア記録・日本記録を3度更新
  • 1984年ロサンゼルスオリンピック三段跳金メダリストのアル・ジョイナーの元で研鑽を重ね、
  • 現在は大分、広島にて「2020年パラリンピック」での金メダル獲得に向けトレーニング中

記録

  • 走り幅跳び5m51(世界ランキング4位・日本記録・アジア記録保持者)
  • 2008年 北京パラリンピック出場 100m:6位入賞、200m:4位入賞
  • 2012年 ロンドンパラリンピック出場
  • 2016年 リオデジャネイロパラリンピック出場 走り幅跳び:4位入賞
  • 2017年 世界パラ陸上ロンドン2017 走り幅跳び:銅メダル獲得
  • 2018年 アジアパラ大会2018 走り幅跳び:金メダル獲得
  • 2019年 世界パラ陸上 世界選手権 走り幅跳び 金メダル獲得(記録:5m37cm)
  • 2021年 東京パラリンピック出場 走り幅跳び 6位入賞(記録:5m27cm)

「障がい者アスリート」ではなく「本当のアスリート」

人気TVドラマ「陸王」で竹内涼真さん演じるアスリートにインタビューする女性記者役で出演もされました。ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。彼女は「義足のアスリート」として各メディアで有名になりました。

今回、彼女のお話を生で聴くことができました。私がそこで感じたことは、中西さんは「障がい者のアスリート」ではなく「本当の意味でのアスリート」だったということです。すごい人でした。本当にすごい。

中西麻耶

彼女のこれまでの壮絶な物語を「たびこふれ」上で改めてたどってみたいと思います。

中西さんは子どもの頃から、スポーツや習い事をやらせると卓球でもピアノでもなんでも器用にこなす子だったようです。ただ飽きっぽいのが玉にキズで、お母さんが「せめて中学3年間位は部活を最後まで続けなさい。」と言われて、始めたのがソフトテニスでした。

中西さんは中学時代にソフトテニスの面白さにハマり、進学は大分県別府市にあるテニスの名門「明豊高校」に行きたいと思うようになりました。

ところが明豊高校はスポーツ推薦しか受けつけないほど競合ひしめく狭き門で、彼女が通っていた中学はさほどテニスが強い学校ではなかったので、スポーツ推薦枠などもらえるはずもありませんでした。

中西麻耶がすごい理由 その1:「なにがなんでも明豊高校に行きたいという思いの強さと行動力」

普通そういう環境なら名門 明豊高校は諦め、志望校を他に変えるところでしょう。ところが彼女はテニス部の監督に「私は明豊でやりたいんだ」という熱い気持ちを綴った手紙を書いて送りました。当然監督からは梨の礫(なしのつぶて)でしたが、それでも諦めず、彼女は監督に直接電話をかけて直談判をします。監督は彼女の熱意を受けとめ「プレイを見なければ判断できないからとりあえず明豊のグラウンドに来なさい」とチャンスをくれました。そこで明豊の選手と試合をしてなんと彼女は勝ってしまうのです。

こうして無事明豊高校に入学できたわけですが、本当に大変だったのはその後です。明豊高校は全寮制で自炊です。朝4時起きで練習をし、上級生の食事は新入生が作らなければなりません。日本中から選りすぐりの選手がひしめく高校ですから、無名の中学から来た彼女はかなり嫌がらせをされたようです「へたくそがどういう手を使ってもぐりこんできたか」などと言われて。負けん気の強い彼女もその厳しさに耐えられず3年間で2回ほど脱走を試みたそうです。それでもテニスをやり続けましたが、3年生の夏の最後の大会の団体戦で負けてしまい、明豊高校はそれまで常連だったインターハイに出場できなくなりました。その事で周りからかなり責められたようで彼女は精神的に参ってしまい、大学進学の道を選ばず、スポーツから離れて普通に就職しました。しかし、いわゆる前向きな就職ではなかったため、その後もどこか満たされない毎日で、テニスをしていた頃の楽しさや勝った時のうれしさなどばかりが頭に浮かび、仕事に身が入らずフリーター同然となって職を転々としていました。

20歳の頃、こんな無意味な生活を送っていては自分が駄目になる。大分国体に出場して高校時代不完全燃焼だったテニスでリベンジしようと目標を掲げました。国体出場を支援してくれる親友のお父さんの会社(鉄骨塗装業)に就職し、大分国体に照準を合わせトレーニングに励んでいました。そんな時でした。作業中に5mの鉄骨が彼女の足に倒れかかってきたのは。

彼女は最初何が起こったのかわからなかったそうです。痛いというより、ただ熱いという感触だったようで、後になって「痛みを越えるとこういう感覚になるのか」と思ったそうです。神経までやられて痛いという感覚が鈍くなっていたようです。鉄骨倒壊により、膝や足首がぐちゃぐちゃになり、骨が飛び出して粉々になっていました。複雑解放骨折です。

中西麻耶がすごい理由:その2「自分の足よりも国体出場を優先」

救急車で運びこまれた時、救急処置の為に着ていた作業服を切り取って患部を見た看護師さんの「うわっ!」という言葉を失った顔を今でも忘れられないそうです。あまりの重傷でその病院では手に負えず、大分市内の大病院に搬送されました。

医師は処置方針として2通り提示しました。

  • 1. 膝から下の足を切断する
  • 2. 足を残していくことを目指す温存治療を行う 

彼女の気持ちは国体出場に向いていましたので「どうやったら早くスポーツ界に復帰できるか」という視点が第一優先でした。普通の人なら迷わず(2)温存治療を選ぶでしょう。スポーツどころじゃなく、人間として普通の生活が出来るようにということを優先させるのではないでしょうか。彼女は医師に訪ねました。「温存治療はどのくらいかかりますか?」分断した骨や神経や筋肉をひとつづつ繋いでいく治療は最低でも2~3年の入院が必要で、もし順調に回復したとしても100%の体重を支えられるところまでの回復は無理だろうと言うのが医師の判断でした。

そんなことをしていたら国体にはとても間に合いません。彼女は尋ねました。「義足になってもスポーツは続けられますか?」それに対する医師の答えは「可能性はある。しかし相当の努力が必要になるでしょう」彼女は事故の起きたその日に決断しました。自分を足を切断することを。

決断した理由は「自分の努力でなんとかなるならとそちら(切断)の道を選ぼう」その時、彼女は意外なほど冷静で、一番の心配事は「どうやって親を説得するかだな」と思っていたそうです。案の定、ご両親、特にお母さんは大反対でした。お母さんの気持ちは察するに余りあります。自分の大切な娘が20歳で足を切断しなければならないとは。彼女はお母さんに約束しました。「ぜったいに弱音を吐かない」「ああ足があったらなあ」とか「あの時足を切断しなければよかった」などとは絶対言わない。だから私が足を切断することを許してくれと。彼女の頭の中には「どうしたら早く復帰して大分国体に出られるか?」の1点だけだったのです。

中西麻耶がすごい理由 その3:「超ポジティブ思考」

何も悪いことをしていないのに、自分の片足が失われてしまう。そんな時、人間はどう思うでしょうか?「誰のせいだ!」「誰が責任とってくれるんだ!」「なんで私だけがこんな目にあわなくちゃならないんだ」と思うことでしょう。私だってそう思うと思います。病院で身動きできず、壁だけを眺めている毎日では考え方はどうしても後ろ向きになってしまうでしょう。彼女の中にもネガティブに感じた部分がまったくなかったとはいえないかもしれません。

しかし彼女は超ポジティブな思考をしていました。もう起きてしまったことをくよくよ考えるのではなく、自分はこれから何をしていくのかを考えよう。自分を受け入れよう。こうなってしまった自分を許そう。そして関わった周りの人たちを許そう。くよくよと悔やんでいる内は時間が止まってしまい、事故から一歩も前に進めていないということ。

スポーツをする時よく言われるのは「くやしさをバネにしろ」というものです。「なにくそ!負けるもんか」と怒りやくやしさをエネルギーにすれば強く上手くなるというものです。しかし彼女は言います。「誰かや何かを恨みながらやっていっても何も生まれないと思います。」彼女を支えていたのは「大分国体に出たい」という気持ちです。「国体に出るにはどうしたら良いか」という目線でものを見ていましたので、自分の足の切断に迷いはありませんでした。

中西麻耶がすごい理由 その4:「義足との戦い」

彼女は初めて義足を履いた時、もっと元の状態に戻れるものと思っていたようです。義足を履くということはサポーターを付けて競技するようなもの、その程度に思っていたのです。つまり彼女は障がい者の大会ではなく、健常者の大会に復帰するつもり満々だったのです。

しかし、義足というのはそんな簡単なものではありませんでした。傷口が塞がっても皮膚はまだ薄くて弱い状態です。そんな状態で義足を履き、リハビリをすると患部がかぶれて火傷のような状態になり、2日間は義足を履くことすらできなくなってしまうこともあったそうです。2日後にはまた最初からリハビリが始まる。そんな行ったり戻ったりの先の見えない辛く苦しい日々が続いたのです。

当時、彼女の周りに義足の人はいませんでした。スポーツ選手どころか一般の人も含めてです。高齢者が病気やケガで歩けなくなった場合、義足を履くのではなく車いすになるというのが一般的でした。当然スポーツ選手で義足で復活した人も自分の周りにはいませんでした。義足の先輩、アスリートの先輩がおらず、ひとりきり、手探りの状態でした。

「義足で走ることができるのか?」はスポーツに復帰する際、重要なことです。義足を作るのに保険は効きますが、それは日常生活用のものです。スポーツ用の義足は日常用の物とは素材から強度からまったく別もので、保険は利かず、1本約130万円もしました。

初めて義足を履いて2~3時間で小走りはできるようになりました。数か月ぶりに風を感じて走ることができたこの時の感触は、彼女にとって言葉で言い表せないほどの感動だったようです。

義足でテニスの国体強化チームの練習に出ました。ある時のこと、練習中に彼女がミスショットをした時、相手は甘い球を返してきました。障がいのある自分に手加減をしてきたのです。彼女はそれがとても悔しかったそうです。テニスは足の前後左右にものすごく負荷がかかるスポーツです。フォアハンドやバックハンドは昔のように打てましたが、義足で昔のフットワークはとても出来ませんでした。

テニスを諦めたわけではありませんでしたが、人の勧めにより陸上をやってみました。100m走と走り幅跳びです。そして初めて出た障がい者陸上大会で彼女はなんと日本新記録を出してしまうのです。1番になる。子どもの頃から運動神経抜群でお転婆だった彼女。でもテニスでもなんでもこれまで1番になることはありませんでした。陸上で初めて1番になれたのです。テニスに復帰するまでの腰掛程度に思っていましたが「陸上もいいな」と思ったそうです。

中西麻耶がすごい理由 その5:「イエス、ノーしか言えない英語力で単身アメリカ修行」

彼女はこれまで出たテニスの試合や陸上の大会で、他の選手に対して「負けるかもしれない」と思ったことは一度もなかったそうです。自信満々でやってきたのです。ところが2008年の北京パラリンピックのトラック上で隣の選手のオーラに圧倒されました。その時生まれて初めて思ったそうです。「私、負けるかもしれない」と。実際その時、そのすごいオーラを発していた人たちに負けてしまったのですが、その時まで障がい者というとやっぱり健常者に比べてアスリートとしてはレベルが低いという印象があったそうです。しかしその北京パラリンピックで出会ったその人たちは「本物のアスリートだ」と感じたそうです。

このままではダメだと思った彼女は翌年単身アメリカに渡ります。英語はイエス、ノーしか話せませんでした。アメリカでのトレーニングは厳しいものでしたが彼女に合っていたようです。何より障がい者という色眼鏡で見られることが多い日本と障がい者健常者の区別なく接してくれるアメリカという土地が居心地がよかったようです。日本では信じられないような話ですが、アメリカでは障がい者の選手が健常者選手と同じ大会で競技することはごく普通に行われているそうです。

困ったのは、資金面です。交通費も滞在費もコーチを雇う費用もかなりの部分を自分で負担していました。お金がなくて、レストランに行き、「私はお金を持っていません。皿洗いするから何か食べさせてもらえませんか?」と頼みこんだことも1度や2度ではなかったそうです。

彼女を打ちのめしたのは、お金のことだけではありません。彼女に対するバッシングです。それは想像を遥かに超えるものでした。

「障がい者というポジションを利用して金儲けしている」「日本を捨ててアメリカに渡った裏切り者」「日本に一歩でも足を踏み入れたら殺してやる」そんな心ない誹謗中傷が彼女の心をズタズタにしました。周りに認められない悲しさ虚しさ、自分自身も努力する意味を見失い、疲れきっていた彼女は2012年のロンドンパラリンピック後に引退を決めました。

中西麻耶がすごい理由 その6:「引退後、復活してさらに記録を伸ばす」

そんな彼女を救ったのはアル・ジョイナーでした。1984年ロサンゼルスオリンピックの三段跳びで金メダルを獲得。女子100m、200mの世界記録保持者であるあのフローレンス・ジョイナーの夫です。アル・ジョイナーは彼女にこう言いました。

自分の中にある小さなプライドが邪魔しているんじゃないのか?
パラリンピックならメダルを穫れると甘えているんじゃないか?
君は勝ち試合しかしないのか?

彼の言葉で障がい者か否かに関わらず、純粋に陸上競技者として精一杯やってみたいという気持ちになれました。そして陸上の世界に復帰。ロンドンの頃、幅跳びの記録は4m90でしたが、その後自己の記録を伸ばし続け、現在は5m51(世界ランキング4位・日本記録・アジア記録)という記録を持っています。

中西麻耶の現在の目標&メッセージ

彼女が現在掲げている目標は次のことです。

・走り幅跳びで6mを飛ぶこと。先ずはそうなりたい。

・パラの大会に身内じゃない人をたくさん連れていきたい。日本ではまだまだパラに対する認知度が低く、会場はがらがらで来るのは身内を含めた関係者だけ。「中西麻耶の跳躍が見たい」と思ってもらえるようにがんばりたい。

・障害を持った人が、スポーツだけじゃなく、それ以外の場所でも輝ける場所を切り開きたい。

中西麻耶

話を伺ったシンジーノの感想

1時間半にわたって、子供のころからソフトテニス選手時代、事故、挫折、復活、現在の目標といった話を伺い「中西麻耶物語」という映画を見ているようでした。北京、ロンドン、リオとパラリンピックに3大会連続で出場するというのはそれは並大抵のことではないでしょう。困難と挫折を強靭な精神力と努力で乗り越えてきた彼女を私は「強い人だなあ」と思いながら聞いていたのですが、彼女が最後にこう言ったのです。「私、自信があるように見えて、自信がない自分がいるんです」と。

そしてこう続きました。「私がずっとやり続けてきたことは「勇気を出す努力」です。明豊高校の監督に手紙を出したり、電話をかけたり、英語が喋れないのにアメリカに単身でトレーニングに入ったり。それらの行動に出られたのは"勇気を出す努力をした"からです。「勇気を出す努力」これには才能も何も要らないんです。今日からすぐできるんです。

人間、年をとってくると段々失敗したくない、恥をかきたくないと思うようになってきます。それを乗り越えるには、自分がもっと成長する為には「勇気を出す努力」を心がければ良いのではないかと思います。この言葉は私を強く勇気づけてくれました。

アスリートは結果がすべてです。どんなに努力しても、人柄がよくても記録を出さなければ周りから認められない。それは厳然たる事実です。
けれどその人の生きざまに感動し、勇気をもらい、応援したくなるということもあると思います。

「記録に残る」「記憶に残る」という言葉があります。中西麻耶選手は「記録」にも「記憶」にも残るアスリートだと思います。

中西さんは髪型をよく変えられるようですが、写真によって別人に見えるほど多彩な表情をされます。女性としても人間としても魅力ある方だと思いました。

トップアスリートである彼女は今でも特練で、何本も集中して飛ぶと義足と足の接触部分に激痛が走るそうです。踏み込みの時は足をハンマーで叩かれるくらいの衝撃があるそうです。そういう痛みや苦しみを乗り越えて陸上にかける。

やっぱり中西麻耶はすごいアスリートでした。

>>中西麻耶さん応援ソング「鳳凰」はこちら

どうです?この渾身の跳躍!

>>中西麻耶オフィシャルブログはこちら

中西麻耶

「日本のひなた宮崎 国スポ・障スポ2027」の大会PR動画に登場!※2022年10月追記

2027年に宮崎県で開催される「第81回国民スポーツ大会・第26回全国障害者スポーツ大会」のPR動画に中西麻耶さんが出演しています。中西さんは、5歳から小学3年生までを宮崎県延岡市で過ごしていた縁があり、今回の起用が決まったそうです。

中西麻耶さんのコメント

宮崎県はスポーツに力を注いでおりますので今から開催が楽しみです。宮崎に残る数々の神話と伝説のような熱い闘いが新しいスポーツの扉を開ける事を期待しております。

日本のひなた宮崎 国スポ・障スポ2027 大会PR動画

▼日本のひなた宮崎 国スポ・障スポ 「スポーツとは -中西麻耶-篇」 30秒

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▼日本のひなた宮崎 国スポ・障スポ 2027年開催-井上康生・中西麻耶-編

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国スポ・障スポとは

  • 国スポ:国民体育大会(2024年佐賀大会より「国民スポーツ大会」に名称変更)の略

都道府県対抗、各都道府県持ち回り方式で毎年開催され、昭和36(1961)年からは、国のスポーツ振興法に定める重要行事の一つとして、日本スポーツ協会・文部科学省・開催地都道府県の三者共催で行われています。(公益財団法人日本スポーツ協会 公式サイトより引用)

  • 障スポ:全国障害者スポーツ大会の略

障がいのある方々の社会参加の推進や、国民の障がいのある人々に対する理解を深める祭典。昭和39年に開催された東京パラリンピックをきっかけに、その翌年からはじまった大会で、公益財団法人日本パラスポーツ協会をはじめ、文部科学省や都道府県・指定都市が主催し、毎年、国民体育大会のあと、同じ開催地で行われています。(公益財団法人日本パラスポーツ協会 公式サイトより引用)

  • 開催予定地

2022年:栃木県、2023年:鹿児島県、2024年:佐賀県、2025年:滋賀県、2026年:青森県、2027年:宮崎県(スローガン「紡ぐ感動 神話となれ」)

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シンジーノ

3人娘の父で、最近は山歩きにハマっているシンジーノです。私は「お客さまが”笑顔”で買いに来られる商品」を扱う仕事がしたいと思い、旅行会社に入って二十数年。今はその経験を元にできるだけ多くの人に旅の魅力を伝えたいと“たびこふれ”の編集局にいます。旅はカタチには残りませんが、生涯忘れられない宝物を心の中に残してくれます。このブログを通じて、人生を豊かに彩るパワーを秘めた旅の素晴らしさをお伝えしていきたいと思います。

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