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チェックポイント・チャーリーを訪れて、ベルリンの歴史を感じる
ベルリンは西側と東側の国々の対立によって街が分断されていました。
ベルリンの街には壁が築かれ、街は二つに引き離されていたのです。ベルリンの壁の崩壊によって街は再び一つの街に戻ったため、今では人々の往来が制限されていたとは信じられないでしょう。ですが、そんな悲しいベルリンの街の歴史を今も伝える場所があります。それは東西ベルリンの境界に建てられていた検問所チェックポイント・チャーリー。今回はそんな検問所を紹介したいと思います。
チェックポイント・チャーリーがあるのはベルリンの中心部。
街の中心部を縦に貫通するフリードリヒ通りの南側に位置しています。ベルリンの壁があった時には、チェックポイント・チャーリーの南側が西ドイツとなっており、その北側が東ドイツでした。実際に検問所として使用されていたのは、ベルリンの壁が存在していた1961年から1990年の間。約30年間に渡って、ここは西ドイツや西ベルリン市民が東ベルリンへの出入り口として、また外国人の東西ベルリンの行き来の場所として使用されていました。
チェックポイント・チャーリーを訪れると見えるのは、ファーストフードの店やお土産屋さんが並ぶ観光地の風景。チェックポイント・チャーリーそのものがあるのは、交差点の一区画のみ。そのため周辺を歩いてみても、特別な場所だとは気付かないかもしれません。そして、ここに検問所があり、そしてこの周辺には街や人々を引き裂くベルリンの壁があったとは感じさせないでしょう。
チェックポイント・チャーリーに残されているのは、60年代に使用されたアメリカ側の検問所の小屋、そして拡大されて高く掲げられた兵士の写真など。写真に写されているのは当時のアメリカの兵士とソビエトの兵士の顔で、アメリカの兵士は北側の東ベルリンに向くように、そしてソビエト側の兵士は南側の西ベルリンに向くように掲げられています。こうしたシンボリックな仕掛けは、東西それぞれの兵士が向き合っていた冷戦時代を思い起こさせるかもしれません。
周辺を歩いていると、通りの脇に看板があるのに気付くでしょう。それは高く掲げられ、下を通り抜けることができます。旧西ベルリン側から見ると、看板に見えるのは「あなたはアメリカ地区から出ます」という一文。一方東ベルリン側からは「あなたはアメリカ地区に入ります」という文章が見えます。この看板にあるように、当時の西ベルリンは、アメリカ、イギリス、フランスに分割統治されていました。そしてチェックポイント・チャーリーがあったのはアメリカ地区。ここではこうした冷戦時のベルリンの状況にも気付くことができるでしょう。
多くの観光客をかきわけて、かつての検問所から離れると、普通のオフィスビルが建ち並ぶ、ありふれた街の風景がを見ることになります。ですが、そこで通りに沿って延々と伸びる線に気付かされるでしょう。これは、かつて築かれていたベルリンの壁の跡を示したもの。今は開発によって普通に見える風景も、かつては壁によって分断されていたのです。こうして見ると、壁が本当に街の中心部にあり、それが様々なものを引き裂いていたことを、感覚的に理解することができるでしょう。
チェックポイントチャーリーは決して派手な名所ではありません。また多くの見所があるわけではありません。ですが、そこにはベルリンの街の歴史を伝えるものが今も残されています。こうした歴史の事実を感じさせるものは、文章や写真などでは簡単にはわかりません。だからこそ、ベルリンを訪れるなら、こうした歴史を感じることができる場所を訪れてみてはどうでしょうか。
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K.Hayashi
- 大学卒業後に渡独。フリーランスライターとしてドイツの文化について多くの記事を執筆中。