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真田幸村1(戦国最後の英雄)
"日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)" 戦国時代最強で最後の武将:真田幸村に迫る!
▲幸村と言えば誰もが思い浮かべる「赤備(あかぞな)え」。のぼりや甲冑、旗指物など全てが赤一色に統一することで、幸村は自軍をより精強に見せるとともに、幸村を慕い命を賭けて共に戦う兵たちの士気を鼓舞していたのかもしれない。
〝戦国最後の英雄〟ともいわれる真田幸村(信繁)は、1567(永禄10)年、武田氏に仕える真田昌幸(後の信濃国上田城主)の次男として生まれました。1582 (天正10)年に武田氏が滅亡し、真田家の存続をかけ、昌幸は主君を次々と変えながら、動乱の中を駆け巡ります。やがて、豊臣秀吉の臣下に入りますが、秀吉の死後、1600(慶長5)年に関ヶ原の戦いが起こると、真田家存続のために父子決別し、父・昌幸と次男・幸村は西軍(石田三成)、長男の信幸は東軍(徳川家康)に加わり、争うことになります...。
関ヶ原の戦い
西軍についた昌幸・幸村父子は、上田城に籠城し、進軍してきた徳川秀忠率いる軍を迎え撃ち、巧みな戦術で徳川軍主力を散々に翻弄しました。
▲上田城 (写真提供:信州・長野県観光協会)
1583(天正11)年に昌幸が築城。2度にわたって徳川軍を退けたことから、難攻不落の城として知られている。
しかし、関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍がわずか1日で勝利しました。家康は、昌幸・幸村父子を死罪に、と考えていましたが、東軍についた信幸と重臣・本田忠勝(信幸の妻の実父)から必死の助命嘆願を受け、高野山へ蟄居を命じました。
九度山
その年の冬、妻子と暮らす許しを受けた昌幸・幸村父子は、高野山から麓の九度山に移り住みました。長い蟄居生活の間、兄・信幸の仕送りに頼りながらも、真田紐を家来に売り歩かせながら諸国の情勢を探ったり、兵術や天文を学んだりと、再起に向けての準備を怠りませんでした。
▲真田紐 c九度山町
販売を口実に諸国の情報を探る役割があったという説も。真田の戦いぶりと丈夫で強い紐のイメージが合致し、その名が定着したと言われている。
しかし、昌幸は罪に問われたままこの九度山で生涯を閉じます。父の無念を胸に、幸村はじっと時が満ちるのを待ちました。幸村は生涯で最も長い14年間を九度山で過ごします。
▲真田庵(善名称院) c九度山町
真田昌幸・幸村父子が蟄居した庵跡に建つといわれる高野山真言宗の寺院。
大阪冬の陣・夏の陣
▲大阪城 c(公財)大阪観光局
天下を統一した豊臣秀吉の居城。戦国時代最後の戦いとなった「大坂の陣」の舞台で、幸村が奮戦した場所。徳川幕府の再築により当時の痕跡は数少ない。
蟄居から14年、1614(慶長19)年、幸村に雄飛の機会が訪れます。大阪城の豊臣秀頼から、徳川氏を滅ぼすために力を貸してほしいと使者がやってきます。幸村は、大勢の浪人を束ねる大将として大阪城へ入城します。この時、幸村とともに九度山の若者が数百人立ち上がったと言われています。
<冬の陣>
10月、大阪城の最も手薄な南側に、空堀と3重の堀で強固な要塞を築きます。これが「真田丸」です。戦術を尽くして徳川軍に大打撃を与え、一旦は和睦に持ち込みますが、和睦の条件には「真田丸の破壊」が含まれており、すぐさま埋められてしまいました。
<夏の陣>
翌1615年4月、再び徳川軍は大阪城を攻めます。真田丸を埋められ城を出て戦わざるを得なかった幸村は、奮闘するも劣勢を覆すことができませんでした。限界を感じた幸村は、決死の覚悟で家康に狙いを定め一丸となって突撃します。その勢いは徳川本陣に迫る凄まじさで、家康に何度も死をも覚悟させました。
激戦の末、幸村は無念な最期を遂げますが、何倍もの兵力を持つ敵軍と互角以上に渡り合った戦いぶりは、全国に〝真田幸村〟の名を広めました。後に家康が「幸村の戦いぶりは敵ながらあっぱれであった」と言わしめた幸村の武勇伝は、こうして後世に語り継がれることになりました。
大阪城まで続いていた!?真田の抜け穴
c九度山町
真田庵から東へ約170m。幸村が大阪城へ馳せ参じる時に、この抜け穴を通って戦場へ出向いたという伝説が残る。実は4世紀ごろの古墳で、真田の伝説にちなんで「真田古墳」と名付けられた。
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