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和歌山・串本(エルトゥールル号海難事故とトルコとの絆)
日本トルコ友好125周年! エルトゥールル号海難事故からつながる日本とトルコの絆
▲エルトゥールル号遭難慰霊碑 (串本町)
今年(2015年)、日本・トルコ友好125周年を迎えました。9,000kmも離れた日本とトルコが友好関係を築くきっかけになったのは、1890年の「エルトゥールル号海難事故」です。舞台となった和歌山県串本町は、本州最南端に位置します。雄大な太平洋に三方を囲まれ、「まるでクジラのしっぽのような地形」が特徴です。
c串本町
エルトゥールル号の日本派遣
1889(明治22)年、オスマン帝国のアブデュルハミト2世は、小松宮彰仁親王一行のイスタンブール訪問の答礼に、トルコ初の親善使節として、軍艦「エルトゥールル号」の派遣を決定しました。皇室儀礼の名目に加え、イスラム教の盟主として途中寄港するイスラーム諸国に、オスマン帝国の威信を誇示し、牽制する狙いもありました。かくして1889年7月14日に、エルトゥールル号は日本へ向けて首都イスタンブールを出港しました。破損事故や燃料の石炭補給問題など様々なトラブルに遭遇し、スエズとシンガポールで予定外の長期停泊を強いられました。苦難の末、横浜に到着したのは、イスタンブールを出港してから約11ヶ月後の1890年6月7日でした。そして6月13日に派遣使節オスマン・パシャは明治天皇との謁見を果たし、スルタンからの親書や勲章を奉呈しました。
エルトゥールル号の遭難・救助、生存者送還
エルトゥールル号は使命を終え、帰国の途に就こうとしましたが、当時日本で流行していたコレラが船内にも蔓延し、横須賀の長浦消毒所に長期間の隔離を余儀なくされました。消毒所から解放されるやいなや、9月15日に、一刻も早いトルコ帰還が求められたエルトゥールル号は台風の危険を押し切って出航を決行しました。そして9月16日に熊野灘で暴風雨に遭い、本州南端に位置する和歌山県樫野崎沖(現・串本沖)で座礁・沈没に至りました。樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」は、海難多発地帯だったのです。座礁・沈没後、乗組員は自力で暴風雨の中を泳ぎ上陸して、助けを求めました。村民たちは総出で救助・看護活動に奔走し、少ない食べ物や衣服を言葉も通じないトルコ人乗組員に惜しげもなく提供し、69名は救助されました。しかし650名以上の乗組員のうち死者は500名を超え、〝日本の海難史上初の大規模外国船海難事故〟となりました。奇跡的に助かった生存者たちは、神戸で日本赤十字社の医師と看護師の治療を受けた後、日本の軍艦2隻(比叡・金剛)でオスマン帝国に送り届けられました。
串本町とトルコ国のつながり
エルトゥールル号海難事故の悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まり、1964(昭和39)年にヤカケント町と姉妹縁組みを結び、1994(平成6年)にはメルシン市との姉妹都市提携の正式調印を交わしました。トルコ国との友好の証として、日ト親善の契りを深めると共に、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、トルコ記念館が建設されました。
▲トルコ記念館 (串本町)
イラン・イラク戦争での恩返し
1985年3月、イラクのフセイン大統領は、イラン・イラク戦争停戦合意を破棄し、イラン上空を飛行する全航空機に対して48時間後に無差別攻撃を開始すると発表しました。各国が救援機を飛ばして自国民を脱出させる中、日本はイランへの定期便を持っていなかったこともあって200名以上の日本人がテヘランに取り残されていました。日本人救出の依頼を受けたトルコのオザル大統領の英断により、トルコは日本人のための救援機を派遣して救ってくれました。
日本・トルコ合作映画「海難1890」
「エルトゥールル号海難事故」と「テヘラン邦人救出劇」をテーマにした日本・トルコ合作映画『海難1890』が12月5日(土)に公開されます。こちらも注目ですね!!
c2015 Ertugrul Film Partners
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