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朝ドラ「エール」のモデル古関裕而さんの故郷から福島市はこんな街
こんにちは!たびこふれ編集部のシンジーノです。
あなたは「福島」と聞いて何をイメージされるでしょうか?会津若松、喜多方、スパリゾート・ハワイアンズ・・・。
では「福島市」と聞いて浮かぶイメージは?
「・・・」
そうかもしれません、実は私も福島市と聞いて何も浮かびませんでした(福島市の皆さんごめんなさい )。福島県は大きく3つの文化エリア(会津、中通り、浜通り)に分かれ、福島市は中通りの県北部に位置する県庁所在地です。行政の町で、会津や喜多方のように華やかな観光地があるわけでもなく、これまでは旅行先としてみると「福島県に旅するなら福島市に行こう!」という雰囲気ではありませんでした。
その福島市が2020年"熱い"です。なぜなら朝ドラ「エール」の舞台になったからです。国民的朝ドラ「エール」に沸く福島市の様子を実際に見に行ってきましたので皆さんにご紹介したいと思います。(取材時期:3月)
【目次】
2020年 国民的朝ドラ「エール」
福島市で生まれ育ち、日本中の人たちを心に響くメロディーで勇気づけてきた日本を代表する作曲家「古関裕而(こせきゆうじ)」さん。少年時代から音楽の情熱に溢れ、生涯を通してなんと5,000曲以上の曲を作り続けました。ドラマ「エール」は作曲家「古関裕而」さんと、妻で歌手としても活躍した金子(きんこ)さんをモデルに音楽ととも生きた夫婦の物語を描きます。(「古関裕而 X ふくしま」より引用)
古関裕而(こせきゆうじ)さんの経歴
古関裕而(本名:勇治)は明治42年、福島の老舗呉服屋「喜多三(きたさん)」の長男として生まれ、裕福な環境で育ちました。新しもの好きの父が持っていた蓄音機を聞いて裕而は音楽に触れたようです。そして10歳で楽譜が読めるようになり、15歳で初めて作曲します(しかも独学で)。本人は音楽の道に進みたかったのですが、商業高校を卒業し、銀行に就職します。銀行に勤めながら作曲は続けており、ある時、
イギリスの国際作曲コンクールで2位という快挙を成し遂げ、福島の無名な青年が全国の新聞に掲載されたほど話題になりました。
その受賞した記事が載った新聞を愛知県豊橋市で読んで手紙を送ってきた女性がいます。後の妻 金子(きんこ)さんです。
そして福島と愛知の遠距離で文通を続け、裕而さんが豊橋に行き、金子さんに初めて会った時に求婚し、21歳で結婚したのです。
古関さんは応援歌、歌謡曲、校歌、クラシックなど幅広いジャンルの曲を作り、平成元年8月18日に80歳で亡くなりました。
【古関裕而さんの代表曲】
紺碧の空/オリンピックマーチ/長崎の鐘/栄冠は君に輝く/六甲おろし/高原列車は行く/露営の歌など
古関裕而さんとはどういう人だったのか
明治という時代に独学で作曲を学び、楽器を使わず頭の中で作曲をしていたそうです。信じられないですね。生涯で作曲したのはなんと5,000曲以上。性格はおとなしく真面目で作曲の依頼があったら断ることはなかったそうです。
古関さんは「聴く人に勇気や元気を与える音楽を作りたい。」という思いが強く、マーチなど明るく華やかな曲が多いのが特徴ですが、高校野球のテーマ曲「栄光は君に輝く」は実際に甲子園のマウンドに立って、曲想を練ったそうです。(この「栄光は君に輝く」は福島駅ホームの発車音や福島市役所の電話保留音で今も流れています。)
野球球団(巨人、阪神、中日)の応援歌を作曲しましたが、特にひいきの球団がいたわけではなく、本人もスポーツも得意ではなかったようです。
古関さんは作曲だけでなく編曲もしています。オリジナルはスコットランド民謡である「蛍の光」はもともと4拍子だったが3拍子に編曲して日本でも有名となりました。
古関さんは昭和三大作曲家のひとりです。昭和三大作曲家とは「古賀雅男、服部良一、古関裕而」で他の二人に比べ名前が知られていないのは、戦時中、軍を鼓舞するような曲を作った為、10年くらいテレビなどに干されていたことも影響していると現地ボランティアガイドさんに聞きました。
ラジオドラマ(「君の名は」など)で作家「菊田一夫」とのコンビで一世を風靡します。シナリオ作家のシナリオは本番ぎりぎりに出来上がることも当たり前で当時は生放送ばかりだった為、出来上がったばかりのシナリオに合わせて即興でオルガンを演奏することも多かったそうです。
古関さんはかなりのヘビースモーカーでしたが、お酒は飲めず、甘いものが大好きだったそうです。
いわゆる高名な芸術家によくある、わがままで自分勝手で、というイメージとは違う古関さんの誠実な人柄が感じられて好印象を持ちました。
福島市長のコメント
今回の福島市訪問時、市長さんのお話を伺うことができました。
<福島市の木幡 浩(こはたひろし)市長>
「福島市は古関裕而さんゆかりの音楽の町です。街にただ音楽を流すだけでなく、市民が音楽を奏でているイメージ、例えばアメリカのニューオリンズのような街にしたいと思っています。それもできたら見るだけ聴くだけでなく「参加型」にしたいと思っています。例えば古関さんは福島県内だけでもたくさんの学校の校歌を作曲しておられます。その校歌を生徒たちが歌う姿を動画で撮影し、その映像を聴きながらみんなで歌う、なんてセッションができたら面白いですね。福島の街が古関ミュージックで溢れている、それもマーチだけでなく、ジャズやダンス風にアレンジしたりするのも面白いでしょう。」
「福島市は果物も豊富です。果物を活かしたスイーツも作りたいし、イベントも開きたい。例えば「夜の果樹園」。果樹園をライトアップしてシェフを呼び、スイーツや料理を作ってもらいその場で食べるなど面白い。実際実験的にやってみて参加者から好評を得ています。」
「福島市には(果物など)いろいろあるけれども"尖ったもの"がないのが課題です。既成概念に囚われず色々なことにチャレンジしていきたいと思っています。」
「東日本震災によって、福島は日本から助けられる存在となりました。本当にありがたいと思っています。これから私たちが目指す姿は、福島市が復興再生モデルとなり例えばどこかで災害が起こった時「福島を見ろ」と言われるようなそんな存在になりたいと思っているのです。「世界にエールを贈る町、福島」になることを目指したいと思っているのです。
「ピンチをチャンスに!」これが、今の私たちのスローガンです。
福島市にある古関裕而さんに関する施設
福島市内には古関裕而さんにちなんだ施設がいくつかあります。
古関裕而記念館(入場無料)
こちらが古関さんが作曲をしていた部屋を再現したものです。(2階)
どちらかというと作曲家というよりは小説家の部屋のようです。楽器がないからかもしれませんね。ちょっと面白い構造になっています。3つの机を突き合わせるように置かれています。古関さんは同時に複数の曲を作曲することも多く、各机にそれぞれ作曲途中の楽譜を置いて、何曲も同時進行で作曲していたのです。ある曲について浮かんだらその楽譜が置いてある机に動いて書きこむ、という方法を取っていたそうです。楽器を使わず作曲したり、一度に何曲も作ったり、古関さんは天才だったのでしょうか。凡人の私からは想像もできませんが、それだけ作曲することが、音楽がお好きだったのでしょう。
記念館内には、演奏会を開けるホールもあります。
こちらが古関さんが実際に愛用されていたハモンドオルガンです。
2階が展示ギャラリーになっています。
古関裕而ロード
JR福島駅から南に延びる通りを朝ドラ「エール」にちなんで古関裕而ロードと命名したそうです。古関さんの生家跡はこの通りにあります。古関さんは20歳まで福島市に住み、その後東京へ上京しました。
福島市街はとてもきれいに整備されています。さすが行政の都市という感じですが、街なかには「懐かしい昭和の風景」もあちこちに見られ、2時間くらいの散策コースもあるようです。街を案内するボランティアガイドさんもいらっしゃるようです。
昭和の懐かしい雰囲気たっぷりのお店(パン屋や洋食屋)が今も現役でがんばっています。
「チェンバーおおまち」
古関さん生家跡近くに新しく作られた、お店や展示スペース、ギャラリーなどを兼ね備えた「チェンバーおおまち」です。
妻の金子さんが大好きだったメロンパンが商品化されていてチェンバーおおまちで買うことができます。
福島市を訪れた感想
戦後の傷ついた人々の心を"音楽の力"で勇気づけようと、新しい時代の音楽を奏で続けていった古関裕而さん。音楽は人の気持ちを元気に明るくしてくれます。古関さんの曲の中では、オリンピックマーチが最高傑作、集大成と言われているそうです。
朝ドラ「エール」皆さん観ていますか?とても面白いですよ。音楽の持つパワーを改めて感じました。気分が明るくなるとウキウキしてきます。生きることに前向きになれます。今のこの世界中を覆っている不安、生命と生活と自由が脅かされている状態。
朝ドラ「エール」は、音楽で世界を勇気づけるという、まさに今の時代に求められているドラマなのかもしれません。
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シンジーノ
- 3人娘の父で、最近は山歩きにハマっているシンジーノです。私は「お客さまが”笑顔”で買いに来られる商品」を扱う仕事がしたいと思い、旅行会社に入って二十数年。今はその経験を元にできるだけ多くの人に旅の魅力を伝えたいと“たびこふれ”の編集局にいます。旅はカタチには残りませんが、生涯忘れられない宝物を心の中に残してくれます。このブログを通じて、人生を豊かに彩るパワーを秘めた旅の素晴らしさをお伝えしていきたいと思います。