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一夜にして消えた街、南イタリアの世界遺産ポンペイ遺跡へタイムスリップ

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記事投稿日:2015/08/31
最終更新日:2017/11/07

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南イタリアのナポリにある世界遺産、ポンペイ。紀元79年の夏、ヴェスヴィオ山の噴火によって灰に埋もれたこの遺跡からは、古代ローマの生活を垣間見ることができます。

このコラムでは、現在でも鑑賞できる遺跡についてご紹介しています。

※写真は全てイメージです。クリエイティブコモンズライセンスに基づき掲載しています。

※記載のない写真は全てPixabay(Public Domain)より。

参考:クリエイティブコモンズ公式サイト(外部サイトに遷移します)

火山灰によって埋もれた街、ポンペイ

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79年、8月24日。石造りのポンペイの街に、南イタリア特有の強い日差しがギラギラと照りつけ始めた昼前のことでした。

活気あふれる目抜き通りでは商店が開き、円形闘技場ではいつのもように満員御礼の見世物が行われていた頃。突如、腹の底から響くような轟音と地響きがしたかと思うと、ヴェスヴィオ山の上半分が裂け、強烈な爆風が一瞬にして人々を吹き飛ばしました。

そして、山の裂け目からはみるみるうちに真っ黒な噴煙が柱のように上がり、たった一瞬のうちに辺りは漆黒の闇となったとされています。たちまち建物は倒壊し、雨あられと降り注ぐ火山灰と軽石は容赦なく呼吸を奪ったそうです。

暗闇に不気味な稲妻が白く光る中、人々は訳も分からず逃げまどい、くんずほぐれつ街の外に出るまでに人ゴミに押しつぶされた人々も少なくなかったと言います。翌日になっても辺りは闇に包まれ、ようやく太陽が顔を覗かせたのは3日目になってからでした。

小プリニウスはこの3日間の様子を「月の出ていない夜よりまだ暗く、閉め切った室内のような暗闇」と表現しています。

これが、ポンペイを一瞬にして死の街へと変えたヴェスヴィオ山の大噴火でした。以後、半径12kmの広範囲に渡って火山灰に覆い尽くされた街は、歴史の舞台から完全に消え去ってしまいます。しかし、軽石と火山灰に埋もれたおかげで街はそっくりそのまま保存され、まるで昨日まで生きていたかのような姿で地中に残ったのです。

18世紀初頭になってようやく発見されたこの驚異の街ポンペイの遺跡は、私達に何を語りかけるのでしょうか。最初にこの遺跡を訪れた時、生々しいまでに臨場感のある街の様子に私はすっかり魅入ってしまいました。

今回は遺跡の見所を巡りつつ、賑やかだった頃の街に思いを馳せてみましょう。

ポンペイの歴史をたどって......かつては活気のあった港町

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Photo by Andy Hay「Porta Marina entrance - Terme Suburbane」(CC-BY 2.0)

ポンペイの街はナポリの南東22kmにあり、当時は海に面した活気ある港町でした。その立地から交易に適し、ポンペイ商人は地中海沿岸、遠くはインドなどと物品を売買していたといいます。

まずは、ポンペイに8つあった門のうちの一つ、海の門から散策を始めましょう。ここはかつて港へ繋がる大通りでした。両側にはびっしりと民家が並びポンペイの市街地が門の外まで溢れていたことが分かります。

海の門から続く坂道を登りきると、軽食を食べられるカフェバーのような店があります。カウンターには暖かい食べ物や飲み物を保温しておけるようになっています。門から街へ入ってきた人々は、ここで軽食をつまみ、まずは腹ごしらえをしたのでしょう。

遺跡から見られる、生活の跡

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フォロは公共広場のこと。ここが市民生活の中心となっていました。中心の広場を囲うように裁判所や集会所、神殿が並び、織物の陳列所もありました。ここでは市民、そして各国の商人たちが賑やかに行き交い、あちらこちらで商談が行われていたことが想像されます。

街の目抜き通りはアッポンダンツァ通りと呼ばれ、きちんと車道、歩道が分かれていました。真ん中の車道にはかつて馬車が走り、横の歩道には沢山の人が行き来していました。雨の日に歩行者が横断する際足を濡らさぬよう、飛び石まで設けられていたのです。

生活用の泉もここにありました。富裕層は自宅に水道を引いていましたが、一般市民は各所配置された泉に水を汲みにきたのです。また、広場からこの通りまでの間には馬止めの石が置かれていることから、歩行者天国だったことが分かっています。

日本で言うところの、休日の銀座中央通りのように、車を気にせずショッピングを楽しむ人々で溢れていたことでしょう。

娯楽も充実していたことを思わせる施設跡も存在

当時、ポンペイの人口は15,000人と言われています。しかし、ポンペイに造られていた野外劇場や円形闘技場は定員5,000人以上と、人口の割にキャパシティーが大きいように感じます。

ポンペイは気候も景色も良かったため、周辺から遊びにやって来る人々がいかに多かったかということを表しています。富裕なローマ人の邸宅や別荘も沢山ありました。また、剣闘士たちの養成所兼寄宿舎には、ちょっとしたドラマがありました。

発掘された時、剣闘士たちに混じって一人だけ華やかな装身具を付けた女性が発見されたのです。おそらく、当時人気だった若き剣闘士に惚れてしまった令嬢が、寄宿舎に忍び込んでいたのでしょう。

罰せられた剣闘士は牢に繋がれたまま生き絶えていたと言います。

人々の交流の場でもあった、公共浴場

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Photo by Elliott Brown「Pompeii - Terme Stabiane」(CC-BY 2.0)

公共浴場は、市民たちにとって欠かせないものでした。入湯料は安ブドウ酒の4分の1程度であったことから、浴場は誰もが気軽に入れる場所だったのです。

スタビアーネ浴場やフォロの浴場などはとても保存状態が良く、当時の様子が伺い知れます。温浴、サウナ、水風呂、マッサージ室があり、脱衣所も完備されていたそう。水盤の中心に通水穴があり温水と蒸気が吹き出すようになっていたサウナ室などは、目の前に当時の様子が甦ってくるようです。

娼館やパン屋もあり、パン屋には石臼やかまどが。かまどには焼きかけのパンがいくつか、そのままの形で炭化しています。

関連記事:【レポート】ポンペイ遺跡で造られたワインの再現に成功したワイナリーとは?カンパーニャ州を代表する老舗「マストロベラルディーノ」へ行ってきました。

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豪邸の跡地に見られる、貴族の生活

「ヴェッティの家」は。裕福な商人の邸宅です。

ポンペイの豪邸には必ず、玄関にアトリウムと呼ばれる水盤を置いたスペースがあり、ここには雨水を溜めていました。アトリウムは、身分があまり高くない者の来訪時などに使われていたといいます。列柱を巡らせた瀟洒(しょうしゃ)な中庭、食堂には商売物尽くしの壁画、部屋からは豪商の家らしく堅固な金庫が発見されています。

これらの豪邸は、たいてい外に向かう窓が無く、通りに面した外側の部分は商店や飲食店に貸していました。したがって、通りに面した部分には玄関だけがあり、内側に入り込んだところに邸宅の本体があるという仕組みだったのです。

「牧神の家」もまた、富裕層の邸宅のひとつ。ことのほか広く豪華であった邸宅からは、噴火のとき今まで築いてきた財産を置いて逃げるのが心残りだったのでしょう、財宝をかき集めたまま息絶えていた邸宅の主人が見つかっています。人は非常事態に直面した際にも、その欲を捨てきれないものなのかもしれません。

このほか「猛犬の家」からも、豪華な装身具を手にしたまま逃げ遅れて命を落とした令嬢2人が見つかっています。

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お時間がある方は秘儀荘もぜひ

もし、時間に余裕がある場合は、北西の端にある「秘儀荘」まで足を伸ばしてみましょう。ここはかつて大きな別荘でしたが、壁には酒と演劇の神ディオニュソスにまつわる、秘密めいた儀式の壁画が残っています。

2000年以上前の人々がどんな街づくりをし、どんな生活をしていたのか、手に取るように分かるポンペイ遺跡には、さまざまなドラマが満ちています。

かつて賑やかに人の行き交った古の街を訪ねて、タイムスリップの旅に出てみてはいかがでしょう。

基本情報

名前:ポンペイ遺跡(Ancient Pompeii)

住所:Via Antonio Morese, 1, 80045 Pompei NA,

※情報は掲載時(2015年8月)時点のものです。

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